停泊数 | 停泊地 | 滞在時間 | 停泊地間距離 | 航海時間 |
---|---|---|---|---|
1 | ローマ | 28時間 | 826km | 19時間 |
2 | サントリーニ島 | 9時間 | 108km | 10時間 |
3 | ミコノス島 | 10時間 | 129km | 12時間 |
4 | アテネ | 14時間 | ー | ー |
総距離 | 1063km |
またもや、かなりいい加減な理由でクルーズへ行ってきた( エッセイ49「ハワイ楽園4島巡りクルーズ」 )。船で行くのだから、船でなければ行きにくいところへ行く、というのが私の信条。すると、どうしても島巡りになってしまう。島がたくさんあるところといえば、まずハワイ。地中海やカリブ海にもクルージングに最適な島がたくさんある。...ということで、ハワイの次は地中海とカリブ海が候補になった。
私はヨーロッパに長期滞在したことがあるし、妻はヨーロッパ系だ。カリブ海よりも地中海に親しみを感じる。頭の中の景観のイメージも、地中海のほうが鮮明だ。
青い屋根の純白の家が立ち並ぶ小さな島。
そこで、地中海へ行くことを妻に提案した。けれども、
私よりも怖がりな妻は、私の提案に抵抗した。イスラム国のテロと、シリアやリビアからの難民。地中海周辺には問題が多い。
テロのリスクはどれほどだろうか? 日本の交通事故死者数は、年間4000人を超える。ヨーロッパでテロで殺される人の数は、その10分の1程度だ。なんということはない。イスラム国のテロよりも、日本の交通戦争のほうがはるかに危険だ。 妻にこの理屈を話し、地中海クルーズへの意欲を引き出そうとした。けれども、こんな理屈は男性には通用するが、女性には通用しない。そこで、リスクが比較的高くなる、トルコ経由のクルーズを避けることで、妻と妥協した。
予約したのは4月だった。出発する7月が近くなってから、イスタンブールやダッカなどで大規模なテロがあった。クルージング中にも、バグダッド、サウジのマディーナなどでテロ。帰国直後にも、ニースでテロがあった。CNNやBBCは、大事件を1日中休みなく報道するので、報道を見ていると、安全に帰国できたことに感謝したくなる。
ネットで調べると、イタリア客船体験記に、客そっちのけで、船員たちが楽しくおしゃべりしていることが、書かれていた。座礁したイタリアの客船から、船長が真っ先に逃げ出したことを、思い出した。そこで、ビジネスライクに事を進める、アメリカ人やノルウェー人が船主の客船を、選ぶことにした。
地中海クルーズを大々的に展開しているのは、イタリアの船会社(MSC社)だ。巨大客船を使って、地中海の隅々まで、クルージングの網の目を張り巡らしている。日数を考慮に入れると、MSC社は相対的に安くつく。けれども、これにはトリックがある。
今回私たちが乗ったのはアメリカの船(ロイヤル・カリビアン・インターナショナル社)だが、食事も飲み物も基本的に無料だ。ハワイで乗ったノルウエーの客船(ノルウェージャン・クルーズライン社)も同様。
今回乗った船のレストランは、特記してもいいサービスをしている。船のカフェは、酒類を除いては、食べ放題・飲み放題が普通だ。しかし、レストランのフルコースが食べ放題ということは、考えられない。ところが、ジュエル・オブ・ザ・シーズでは、1回のディナーで、数種類あるメインの全品を注文できる。日本人には、メインを2品以上食べるのは難しいが、大食いのアメリカ人の中には、2品以上食べる人がいても不思議ではない。
船に乗る前に添乗員が言った。「MSCの船では、なにやかやと有料のものが多いのです」。船上生活で、何かをするたびに細かく支払いを続けると、合計はかなりな額になってしまう。
クラブ・ツーリズムが、希望に最も近いクルーズを販売していた。ロイヤル・カリビアン・インターナショナルのジュエル・オブ・ザ・シーズ号で、エーゲ海を回る旅。
このクルーズはローマ発着だ。クラブ・ツーリズムのツアーに参加する日本人だけが、アテネで途中下船する。他の客はローマまで船で戻る。 港々のツァーは、ハワイでのオプションとは異なり、ツアー料金に含まれる。ガイドや運転手へのチップは、小銭の準備が必要になるので厄介だ。全部込みなら、余計な心配をする必要がない。 7月1日に日本を出発し、全行程は8日間だった。
参加人数は少なく6人だった。 この人数に添乗員をつけて、会社はもうかるのだろうか?余計なお世話か。ちゃんともうけが出るように、私たちの旅費に加算されている。人数が少ないおかげで、添乗員を中心にした、家族旅行のようになった。
家族になったついでに、添乗員の身上調査をした。小柄で丸ぽちゃ、かわいいタイプだ。3年で8キロ太ったそうだ。その間に、顔がほてったりしたが、原因は更年期障害ではないそうだ。「更年期障害ではない」と言ったことから、彼女の年齢を推測できた。
まだ独身で、一人っ子。親元に住んでいて、旅行に出るときにだけ家を空ける。旅行から帰ると、持ち帰った洗濯物を母に洗ってもらう。勿論(!!)、料理は作らない。彼女が「結婚をしたい」と言ったが、私が、「今のままのほうが快適でしょう。ご両親も、娘と一緒に住めることを喜んでいるはずですよ」と言ったら、本音の答えが返ってきた。「まあ、しばらくは今のままでいいと思います」。
彼女は、ボリュームのある食事を残らず食べる食道楽だ。世界中を歩いて、どこの国の料理を一番好きになったのかを、聞いた。答えは、「私はグルメではないので、ドイツ料理が好きです」。ドイツ人はちょっと不愉快になるかもしれない。ドイツ人を、さらに不愉快にさせるための私の意見は、「確かに、グルメでドイツ料理を好きな人は、余りいないかもしれません」。これでは添乗員にも失礼なので、次の言葉を付け加えた。「でも、ドイツのソーセージは世界最高ですね」。
この添乗員は、陸に上がるとサッササッサとよく動くので、シニアの中には、追いかけるだけで精一杯の人がいた。周囲の景色を楽しむどころではない。けれども、 「私の後ろについて来てもらってもいいし、私から離れて自由に歩いてもらっても、一向にかまいません」、と港々の観光でいつも言った。参加者の意思を尊重していることが、よく分かった。旅行に慣れていない人には、添乗員のガイドがうれしい。旅行に慣れている人は、添乗員による束縛を嫌う。
クルーズに個人参加の日本人がいたようだが、数はとても少なかった。テロの影響で、地中海を含むヨーロッパへの観光客が、減少している。
添乗員によると、テロの脅威を感じているはずの欧米の人たちよりも、日本人観光客のほうが大きく減っているそうだ。安全な国で生まれ育った日本人。危険が周囲に存在するのが当り前な人たちよりも、危険に敏感なのだ。
おかげで、日本語を話せる現地人ガイドは、仕事が減って困っている。ガイドが別の仕事に就いてしまうので、日本の旅行社が困ることになる。イタリアでもギリシアでも、ツアーには現地人ガイドを付けることが、規則で決まっている。現地人ガイド探しが、大変になっているそうだ。
飛行機は往復ともにカタール航空だった。 航空機内には、原則として、航空機が登録されている国の法律が適用される。イスラムの国の飛行機では、飲酒が禁止あるいは制限される場合がある。 特に、行きはラマダンの時期に重なり、昼間はアルコールのサービスがないかもしれない、と成田で添乗員に言われた。でも、内緒でサービスすることもあるそうだ。ノンビリと酒を飲むことが、飛行機旅行の楽しみの一つ。私は、「内緒で」ビール1缶とワイン2杯を飲ませてもらった。
ドーハで飛行機を乗り継いだ。私たち夫婦は、それまで中東の地に降りたことがない。行きは、ドーハ空港内で5時間も待ち時間があったが、初めての中東なので、その間、目が皿になっていた。
巨大な空港だ。外は灼熱。空港の建物は、完全に密閉されている。建物内で、新しいシャトル・モノレールが、試験運転をしていた。無料の電気自動車が、遠すぎるゲート間を移動する乗客を運んで、走り回っていた。
ドーハ空港の建物内に緊張感がないのは、意外だった。アムステルダムでは、乗り継ぎのために空港内を移動するだけでも、全身透視スキャナーなどによる、厳しいチェックを受けなければならない。 もう一つ意外だったのは、黒いヒジャブでからだ全体を隠した女性が、極めて少ないことだ。日常生活はかなり世俗化しているようだ。
ドーハ空港内で、緊張した空気を一瞬だけ感じた。 ローマ行きの飛行機の出発ゲートの待合室へ入るところで、チェックがあった。女性係官が、並んでいる乗客のパスポートを調べた。私と妻は、難なくパス。
私たちの後ろにいた、2人連れのアラブ系らしい若い男性に、係官が疑いを持った。1人は、ローマに数か月住んでいるが、もう1人は、初めてローマへ行くと言った。「なぜローマへ行くのか?ローマで何をしているのか?着いたら何をするのか?どこに滞在するのか?仕事は?滞在費の出所は?イタリア語は分かるのか?」などと、係官の質問は矢継ぎ早やだった。 英語の質問の間に、突然にイタリア語を混ぜた。イタリア語が分からないと言った男性が、正確に答えたために、係官がたたみかけた。「イタリア語を分かりますね。なぜ嘘をついたのか?」。
私たちと、止められている2人の間の距離が広がった。止まったままの行列を後ろにして、ドアの前のデスクの椅子に座った、男性係官のチェックを受けた。
私は難なくパス。妻が足止めされた。
係官が、コンピュータの画面で、妻の個人データの検索を始めたのだ。妻は、オーストラリア国籍で日本滞在。日本から海外旅行に出かけた。こういう人たちのチェックが、厳しくなっているようだ。ツアーに申し込んだときに、「オーストラリア領事館が、奥様のパスポートの記録をチェックするので、参加申し込みを受け付けるかどうかの決定まで、しばらく時間をください」、とクラブ・ツーリズムから言われた。
オーストラリアでも、イスラム国のテロが何件かあり、オーストラリアからイスラム国へ参加している若者が、いる。
飛行のルートにも、中東の緊張が影響した。 ドーハからローマまでは5時間の飛行。通常のルートは、シリア南部をかすめる最短距離になる。ところが、飛行機は大きく南へ迂回した。エジプトのカイロからアレクサンドリア上空を飛び、アテネ南方で通常のルートに戻った。
私は、成田でユーロへの両替を行わなかった。ローマ滞在中に小銭が必要になるので、空港でユーロを手に入れなければならなかった。海外旅行では、デビットカードを使って、ATMで現地通貨を引き出すことにしている。むだな両替をしないためだ。ところが、イタリアにはATMがとても少ないことを知った。
空港の両替所で受付の女性に1万円札を渡すと、女性が言った。「あと4千円出してもらえれば、レートが良くなりますよ」。そら、来た!イタリアン・トリックだ。こんなことでレートが良くなるとは、信じられない。イタリアの空気を空港でじかに感じることができて、私はうれしくなった。けれども、断固、 1万円しか両替しなかった。手数料10%と税金7ユーロを払った。渡されたユーロは、約7400円相当分に減っていた。
イタリアでは、店で小さいものを買ったときに、札で払うと、コインがないという理由で、つりをくれないことがあるそうだ。1ユーロのコインを、あらゆる機会を使って確保したい。
船のATMでユーロを引き出したが、手数料が高い。6ユーロを自動的に取られる。最低引き出し額が50ユーロだった。100、200ユーロ札では使い勝手が悪いので、50ユーロ札を繰り返し引き出した。結局、12%の手数料を払ったことになる。 海外旅行をすると、いろいろな点で、日本のサービスがとても良いことが分かる。
ローマには昼頃に到着し、その日は自由行動だった。 事前に決まっていたツアーは、翌日のスペイン広場とトレビの泉だけだった。初めて来たローマ。他に見たいところがたくさんあった。その日のうちにバチカンとコロッセオへ行くことにした。添乗員にガイドをする義務はなかったが、行動を共にすることになった他の夫婦1組と一緒に、私たちを案内してくれることになった。
気温38度で暑い日だった。宿泊するレオナルド・ダ・ビンチ・ホテルからバチカンまで、15分の距離を歩いた。
バチカンでは、1台の装甲車の前に、防弾服を着て狙撃銃を構えた、重装備の兵士たちが立っていた。けれども、兵士同士がおしゃべりをしていて、緊張感がなかった。 やはりイタリアだ。
バチカンでは25年ぶりの幸運に恵まれた。サン・ピエトロ寺院の右側のドアが、25年ぶりに一般に開放されていたのだ。中央のドアよりも小さな右側のドア。見た目にはありがたくも何ともなかったが、添乗員は大喜びだった。
日本の寺や神社と違って、とにかくデカイ。たくさんの重い石を高所まで運び上げた、執念に圧倒される。建物だけではなく、ローマ市内には特大の彫像が至るところにそびえている。人間に執着するヨーロッパ文明の証だ。
バチカンからコロッセオへの移動には、地下鉄を使った。地下鉄は2本しかないので、移動が容易だ。バチカンの近くにある、A線のOttaviano駅で地下鉄に乗った。街の中心にあるTermini駅で、B線へ乗り変えた。そしてColosseo駅で下車。各車両の通路上部に停車駅名が表示されるので、分かりやすい。バチカンーコロッセオ間の移動に、約40分を要した。乗車券は、1回券が1.5ユーロだ。
ここで、「事件」が発生した。
市内観光へ出かける前に、添乗員から注意があった。「ローマにはスリや置き引きが多いので、財布をポケットには入れないでください。また、バッグはファスナーが付いているものを使い、必ずからだの前にずらしてください」。
A線の車内は冷房が効いていて、それなりに清潔、快適だった。ところがTermini駅でB線に乗り換えて驚いた。車体は、窓を含めて下から上まで完全にいたずら書きに覆われていた。冷房がないので、汚れきった車内は暑く、悪臭がした。
この車内で、一緒に行動中の夫婦の奥さんが、泥棒の被害に遭いそうになった。バッグを前にずらしていたが、ややからだの左側に寄っていた。ファスナーの引き金は後に引いていたので、見えにくい位置にあった。
途中の駅に着いたときに、
誰かの白いバッグが、自分のバッグの上にあるのに気づいた。そのバッグの陰になって、自分のバッグが見えなかった。何事かと思って、バッグを前方へ押しやって驚いた。後から伸びた白い腕が、ファスナーが開かれたバッグの中に入っていたのだ。後ろを見ると、20歳前後のきれいな女性がいた。女性は、閉まり始めたドアから外へ飛び出した。
被害はなかった。奥さんの感想、「私が、一番ボーッとしているように見えたのでしょう」。私の感想、「一番金持ちに見えたのでしょう。それにしても、ローマへ着いたその日に、初めて乗った地下鉄でスリに狙われるなんて、ローマは噂通りに危険な街ですね」。それからは、全員が自分のバッグを抱え込むようになった。
その日は、コロッセオまでの予定だったが、添乗員がサービス精神を発揮してくれた。
暑さで「フウフウ」言いながら、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂まで案内してくれた。高台にある壮大な白い建物に、圧倒された。さらに、真実の口がある、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会まで足を伸ばした。
真実の口は建物の中にあるので、横を通っても気づかない可能性がある。
添乗員が案内してくれたおかげで、予想外の収穫を得られた。
ピンク・フロイドが、帰り道になる広場でコンサートをやっていた。おかげで、地下鉄の駅へ行くのに回り道になる、石畳の急坂を上ることになった。コロッセオ周辺を3キロ近くも歩くことになり、汗びっしょり。バチカン観光も含めれば、合計で5キロを超えた。そのおかげで、ホテルのレストランで夕食時に皆と飲んだビールが、とてもおいしかった。
翌日は、チビタベッキア港で船に乗り、午後5時に出港。予定では、それまでローマ市内を観光することになっていた。ところが、訪れるのは、スペイン広場とトレビの泉の2か所だけだった。ローマは初めての私と妻。ナヴォーナ広場やパンテオンにも行きたかった。事前にネットで調べた範囲では、そこまで足を延ばしても、時間は余りかからないはずだった。私の希望を添乗員に話したが、答えは現地人ガイド次第ということだった。
前夜、サッカー・ヨーロッパ選手権の優勝決定戦があった。イタリアがドイツに破れたので、やって来た男性のガイドは意気消沈していた。開口一番、「今日は朝から仕事をする気になれませんでした」。昨夜の応援で声がつぶれてしまい、しわがれ声だった。けれども、添乗員がこのガイドに私の希望を伝えてくれたためか、ナヴォーナ広場とパンテオンも案内する、と言った。スペイン広場とトレビの泉だけならば、片道1キロにも満たないが、ナヴォーナ広場とパンテオンも含めれば、1周で4~5キロになる。
観光はまずナヴォーナ広場から始まった。日曜日の朝だったので、地元の人も観光客も少なかった。市場が開かれる日には、人々でごった返す。 広場の中心で、ベルニーニ作の彫像を中心にして、噴水が水しぶきを上げていた。1世紀頃に作られた。肉体美に執着する、西洋文明の象徴のようなベルニーニの作品だ。
後ろのサンタニェーゼ聖堂は、ライバルのボッロミーニが設計した。ベルニーニが、布をかぶった彫像を作って、「見るに堪えない聖堂」と表現したり、手を伸ばした彫像で、「今にも倒れそうな聖堂」と表現した、という逸話がある。それが事実ならば、他人への嫌悪の感情を永久に残そうとしたことになる。後世の人が作った逸話だとしても、この逸話を作った人の生臭さが伝わってくる。枯山水の日本人の感覚とは大きく異なる。
一番混んでいたのはトレビの泉だった。2000年前に皇帝アウグストゥスが作らせた噴水だ。巨大な彫像と噴水が、盆地のようにへこんだところにあるので、周囲の人垣をかき分けても、全体を撮影するのは困難だ。
隣にサン・ヴィンチェンツォ教会があり、中は周囲の騒音から隔絶されていて、静かだった。カトリック教徒の妻は、トレビの泉よりもこの教会のほうを気に入って、祈りを捧げた。教会の中で、妻は帽子をかぶったままだ。女性は帽子をかぶっていてもいいが、男性は帽子を取らなければならないので、注意が必要だ。
スペイン広場では、2台の装甲車が離れたところに立っていたが、男性兵士たちの雰囲気はバチカンと同様だった。スペイン大使館の横に止まった装甲車の前に、女性兵士が1人いて、彼女は明らかに緊張していた。スペイン大使館の豪華なドアをビデオ撮影しようとした私に、「撮影するな」という厳しい警告が、彼女から飛んできた。 一緒にいたイタリア人のガイドいわく、「男性なら気にしませんよ。女性はいつも厳しいですね」。この警告は、ドアの撮影を禁じたのではなく、横に立っていた装甲車と兵士が映るのを気にして、発せられたらしい。なお、スペイン広場の大階段は現在工事中。
いよいよ乗船。港にも警備の兵士がいたが、やはり緊張感は感じられなかった。乗船時のセキュリティ・チェックは、ハワイよりもずっとゆるかった。消毒液の手への散布は、ハワイでは、レストランへ入るときだけではなく、町から戻って乗船するときにも、行われた。このクルーズではレストランへ入るときだけだった。
客船の船長は普通は男性だ。ところが、ジュエル・オブ・ザ・シーズの船長は女性なのだ。しかも、日本人とノルウエー人のハーフだった。船長から、添乗員を介して、日本人乗客へメッセージが送られてきた。
今回のクルーズに参加した乗客の国籍は、55か国に渡った。ローマ発着なのでイタリア人が最も多かったが、年間を通しての乗客数ではアメリカ人がトップ。 アメリカ人はテロの標的になりやすいので、最近は、地中海クルーズに参加することをちゅうちょしているのかもしれない。日本人が少ないのはともかく、意外だったのはドイツ人を見かけなかったことだ。 クルージングの全行程を通して、ドイツ語を聞くことがなかった。ドイツ人は世界中を旅行している。特に太陽の光が強烈なところがお気に入りだ。なぜ、エーゲ海クルーズで見かけなかったのだろうか?
ヨーロッパ系の人たちは、プール周辺で寝転ぶのが好きだ。サントリーニ島までの長い航海の間も、朝から晩まで、折りたたみ式ベッドを占拠して、飽きもせずに寝転んでいた。おかげで、1時間も寝転んでいれば飽きてしまう私たちが、寝転びたいときにベッドを探しても、空きがなかった。そこで、柔らかいソファのあるカフェで、海を見ながら食べたり飲んだり、日本ではめったにない無の境地で過ごす時間を持った。
カフェで、ぺルー人のウエイトレスと仲良くなった。独身の若い男性だが、船内では出会いがありそうに見えながら、ガールフレンドを見つけるのは難しいそうだ。時々、2週間ほどの休暇をもらって陸で過ごすのが、最も楽しい時間になる。
ハワイでは、アルコール以外はすべての飲み物が無料だった。この客船では、カプチーノなどの手のかかるコーヒーが、有料だった。私は、ビールはバドワイザーをよく飲んだ。330mlのボトルが、チップ込みで6.5ユーロ(740円)。酒好きが暇に任せて酒を飲み続けると、クルーズでは相当な出費になるので、覚悟していただきたい。
オーストラリアに住んでいる、妻の妹の夫の祖父母は、シチリア島出身。彼にとっては、シチリアは夢の島だ。
イタリア本土とシチリア島は、幅3キロほどの海峡で隔てられている。私たちの船は、2日目の朝にその海峡を通過した。 義理の弟のことを思って、シチリア島を長時間撮影した。ビデオ・カメラのズームを最大限にすると、肉眼では見えにくい人の動きまで追跡できた。どの人影がマフィアかは、知る由もなかったが。
地中海は静かだった。やわらかくうねる海に島影を見ることはなく、あくまでも広い。エーゲ海に入ってから、海が荒れだした。航路の周囲に島が現れるようになった。
サントリーニ島は、南北に18キロ、東西の最大幅5キロほどの島だ。 切り立ったがけに囲まれていて、人々は島中央部の高台に住んでいる。海抜300メートルほどの高さにある町から、エーゲ海を見おろすと、海のある風景がより一層美しくなる。海からサントリーニ島を見ると、純白の家々が、島の尾根に白く太い線になっている。その非日常的な光景に観光客は驚く。
夏の間の島民数は1万4000人。ここへ、毎日数万人の観光客が押し寄せる。サントリーニ島にもミコノス島にも飛行場があり、アテネから飛行機で行くことができる。アテネからフェリーで行けば、サントリーニまで8時間、ミコノスまで6時間程度だが、高速船を使えば時間はもっと短くなる。
島が水平線に見えてきたので、多くの船客が甲板に出た。人々は、異世界を訪れる期待感に胸をふくらませて、島に見入った。緑が少ない島の高台に町が広がっているので、遠くからは、茶色の島の尾根に純白の線が引かれているように見えた。ビデオカメラのズームで、白い家々を特定できた。
船が島に近づき、港の沖に停泊した。近くに客船が何艘か停泊していた。純白の家々が、上方のはるか高みで左右につらなっていた。背景はあくまでも青い空。
港が浅いので、連絡用のテンダーボートで、乗客は客船と島の間を行き来する。 風が強く海は荒れ模様だった。ボートが激しく揺れたが、非日常的な地へ出かけるので、プロローグとしてこれくらい揺れると、旅はより劇的になる。
港から島の高台の町までは、急坂をケーブルカーで上がるか、ロバの背に揺られて、つづら折りの急坂を上る。ロバは、この島の伝統的な交通手段だ。健康に自信のある人は、歩いて登ってもいいが、灼熱の太陽の下で急坂を300メートル登るのは、かなりな難行だ。 私たちは、安全を第一にしてケーブルカーを使った。着いたところはフィラの町。
眼下に、紺青色のエーゲ海が広がっているのを見て、皆の口からいっせいに感嘆の吐息がもれた。海に白い客船やヨットが停泊していた。 この美しさを文章で表現するのは難しいので、以下の動画を見ていただきたい。
エーゲ海を遠景にしたフィラの町のたたずまいは美しいが、青い屋根のある白亜の家が数多く立ち並んでいるのは、10キロほど北にあるイアの町だ。輝くような純白の家が、強烈な青い色を発する丸い屋根を頭に載せていた。街中の狭い通りまで白く塗られている。イアは、非現実的なほどに人工の美であやどられている。
日本語の勉強を始めたばかりの現地人ガイドによると、以前は、金持ちだけが家を白く塗っていた。貧乏人は、安く済む薄茶色の塗料で家を塗っていた。白い家が、観光地としての魅力を増すことが分かってからは、どの家も白く塗るようになった。
誰もが年に1回は塗り替えるけれども、塗り替えを強制する法律があるわけではない。観光しか産業がない島では、仕事は観光産業にしかない。家を白く塗ることが、職の確保につながる。強制されなくても、現実的な利益があれば人は努力を惜しまない。非現実的な美は、このように現実的な理由によって作り上げられている。 夢のような光景が、生臭い利益と密着しているのは、勿論ここだけの話ではない。世界にはよくあることだ。ディズニーランドもその例だ。
サントリーニ島やミコノス島で結婚式をするのが、日本の若い人たちの夢になっている。けれども、教会では挙式できない。 ギリシアの宗教はギリシア正教で、教会はほとんどがギリシア正教の教会。ロシアもギリシア正教だが、ロシア人でさえも、ギリシアの教会で挙式をできない。 ギリシアに住んでいるギリシア正教徒だけに、挙式が許されている。伝統に厳しい宗教だ。
日本人は、宗教とは無関係のホテル内のチャペルで、形だけの挙式をする。ギリシア正教会は、このような人たちのために、教会内での写真撮影を認めている。ウエディング・ドレスを着て、十字架とエーゲ海を背景に、記念撮影をすることができる。 すなわち、現実はハネムーン以上のものにはならない。それでも、思い出づくりには十分だ。若い皆さん、チャレンジしてください。
サントリーニ島では、町が乾燥した島の高台にあるために、水や食料の確保が容易ではない。地中深く掘った井戸からくみ出す水には、塩分が含まれている。たまに降る雨水を溜めても、飲料には適さない。栽培できる野菜と果物は、トマトとブドウくらい。ワインは名物だ。海には魚がたくさんいるが、魚だけでは生きられない。
飲料水や食料の多くを、南にある大きなクレタ島から運んでくる。
観光地であることも考えると物価が高そうだが、町中の一般的なレストランでメニューを見ると、意外に安い。肉、ソーセージ、チーズ、魚、野菜、パスタなどを種々組み合わせて、一皿に盛りつけた料理が、7~8ユーロ(800~900円)だ。
ギリシア人は、クレジット・カードでの支払いを歓迎しない。現金至上主義者だ。これは、6年前の経済危機が、トラウマとして心に残っていることによる。当時は、クレジット・カードが使えなかっただけではなく、銀行で預金を引き出すこともできなくなった。持ち金はタンス預金(ウオードローブ預金)がベスト、と考えるようになった。
犯罪が多いかどうかは、窓や建物の入り口を見れば分かる。犯罪多発地帯では、鉄格子でおおわれている。サントリーニ島でもミコノス島でも、鉄格子を滅多に見かけなかった。狭い通りの両側に並んだ店では、誰でもすぐに手に取れるような位置に、商品をたくさん並べていた。両島の犯罪発生率は、間違いなく低い。 犯罪が多発する陸から離れていることや、島まで来る観光客がある程度裕福なことが、犯罪率の低下に貢献しているはずだ。
この島は、ジプシーには稼ぎにいいようだ。ファミリーと思われる、アコーディオンをひく女の子と男の子、足が不自由な男性、それに地面に頭をつけた老婆が、間隔を保って道端に並んでいた。ギリシア人でさえも職の確保が困難だ。ジプシーの生活はそれ以下なのだ。私は、女の子につい金をあげてしまった。
観光客が多いので、帰り道で想定外の事態に遭遇した。最終テンダーボートの出港時刻が、夜の9時だった。私たち夫婦は余裕を見て、7時半頃のテンダーボートに乗るつもりだった。
ケーブルカーの搭乗口へ行って驚いた。行列が、搭乗口の前の広場から下方の狭い道にまで、延々と続いていて、列の末端が見えなかった。末端を探して細い通りを降りた。数百メートルも降りたところで、やっと末端にたどり着いた。
意外だったのは、いろいろな国から来た観光客が、全員日本人並みにおとなしいことだった。誰も列に割り込もうとせず、愚痴をこぼさずに、末端を探して下へ降りていた。
ケーブルカーの搭乗口にたどり着いたのは、列に並んでから1時間以上も経ってからだった。搭乗口の横に港へ降りる坂道の入り口があり、「歩いて降りればよかった」と妻と話したが、それは後の祭り。船に帰ったのは9時近くだった。
船に戻るまでの間に、夕焼けが見えるはずだった。けれども、空が夕焼けで染まることはなかった。夕焼けになるには、それなりの条件が必要。空気中に水蒸気が多く、ある程度雲がかかっていることによって、波長の長い赤い光が選択され、地上に達する。私たちが訪れた日はよく乾燥していて、空には雲一つなかった。
ミコノス島は、東西、南北ともに12キロ前後の島だ。人口は1万人。サントリーニとは違い平坦な島なので、家が海岸近くまで立ち並んでいる。
日本人には風車やペリカンで有名だが、ゲイが集まる島としても知られている。
白い家と青い屋根は、ここでも見ることができる。 白い小さな教会がたくさんあり、この島も日本人が結婚式を挙げたい島になっている。特に、港の近くの古いパラポルティアニ教会が、雑誌などで紹介され、最近人気が出ている。
ミコノス島までの現地人ガイドはかなり素人っぽかったが、アテネでは違った。女性の現地人ガイドは、必要な説明をテキパキとし、暑さでグロッキー気味の私たちを的確に誘導する、プロだった。
ギリシアもイタリアと同様に経済的には大変だ。けれども、街の中心部はたくさんの車で渋滞していた。ギリシアの人口の約3分の1が、アテネ周辺に集中している。 交通信号を無視する人が多いらしく、信号無視の場合の罰金は700ユーロ(8万円)。これは1か月分の給与に相当する。 8月には誰もが夏休みを取り、裁判所でさえも1か月間閉鎖されてしまう。夏休みには事故はなく、犯罪者も休むということだろうか?
エーゲ海の島は暑かったが、アテネはさらに暑かった。気温42度。空気が乾燥していても、ただ事ではない熱気によって汗が吹き出た。 アテネでは高温・乾燥化が進んでいる。以前水が流れていた2本の川が、完全に干上がっている。6~10月の間は雨が降らない。パルテノン神殿の丘の斜面にオリーブの木があるが、さすがのオリーブもこの乾燥はこたえているようだ。 葉が乾燥して、枯れかかっているように見えた。
ローマと同じように、街のあちらこちらにいたずら書きがあるのはいただけない。けれども、高層ビルの屋上に大きな木がたくさん植えられているのを見て、感動した。ガイドの説明によると、2004年のアテネ・オリンピック時に、ビルに植える木を無料で配布するようになったことが、植樹を助けているそうだ。 ただし、水道料金が高いだけではなく、乾燥地なので水を頻繁に木に注がなければならず、労働力が必要になる。国会議事堂前の、政治家や官僚が住む高級マンションのバルコニーは、うっそうと茂る樹木で覆われていたが、他のマンションに植えられている木は、より小さく数が少ない。
パルテノン神殿は街の中心部に立地している。バスでパルテノンへ行く途中に、たくさんの遺跡がある。アリストテレスとプラトンが座って議論を戦わせた岩の上には、誰でも登れる。無造作にたたずんでいる遺跡群が、2000年以上も前に作られた。 さすがギリシアだ。
パルテノン神殿周辺のトイレが無料なのは、トイレで料金を払う習慣のない日本人にはありがたい。観光収入が膨大ならば、観光客にこの程度のサービスはできるのだ。
パルテノン神殿の丘の中腹にレストランがある。木々に囲まれたこぎれいなレストランだ。名前はXenios Zeus。ここで早めのランチを食べた。フルコースだったので、前菜だけで空腹が満たされたところへ、メインの巨大なハンバーガーが出てきた。肉料理が好きな添乗員はほぼ完食したが、他の人たちは半分も食べられなかった。
短いアテネ滞在の最後の最後に、奇跡が偶然に起こった。妻のルーツが見つかったのだ。
妻の旧姓はNykisだった。ポーランド系オーストラリア人だが、ポーランドにはNykisという姓はない。父母にも、どこ由来の姓か分からない。
祖先を辿っても、祖先は闇の中へ消えてしまう。ただし、南欧系らしいということは想像できた。言葉の響きがギリシア語に似ているのだ。
アテネから飛行機で成田へ戻ることになっていた。アテネ滞在に泊まりはなく、到着した日の午前と午後だけ、市内を見て回ることができた。 空港へのバスは、街の中心にあるゼウス神殿の前から出発。集合時刻は午後5時だった。4時頃、熱風に体力を奪われて疲労気味の私と妻は、木陰のベンチに座った。集合時刻までそれ以上動く気はなかった。そこで奇跡が起こったのだ。
その日辿った道を地図で調べていた私の目に、Nikis Streetという名前が、突然に飛び込んできた。妻に通りの名前を見せると、妻は仰天した。その通りは、ベンチから400~500メートルしか離れていなかった。いやも応もなかった。早速行動開始。 通りの入り口が分かりにくく、地元の人に道をたずねがら歩いていると、「Nikis Street」という道路標識が私の目に入った。
通りは、幹線道路から、2~3ブロック住宅地へ入ったところにあった。道の幅は狭く、坂が多いことから、古い通りであることが分かった。 道路標識に見とれ、スマホで通りの写真を撮りながら、妻は感動した。目から出る涙をおさえることができなかった。子供のときから、家族の出所の謎に頭を悩まされてきたのだ。今、やっとルーツにたどり着いた。しかも、全く突然かつ偶然に。
ギリシア語のNikisとポーランド語のNykisは、発音が同じだ。ご先祖様が、何らかの都合でスペルを少し変えたらしい。
私から妻へ先祖の謎を解く推察、「Nikis Streetに住んでいた元気のいいギリシアの若者が、かわいいポーランドの女の子を追っかけて、北へ行ったのだと思うよ」。妻の返答、「元気のいいギリシアの娘だったかもしれないわ」。どちらがどちらを追いかけてもいいが、そうやって人類は混じり合いながら、世界を作ってきた。我が家の親類縁者が関係している国は、ギリシア、ポーランド、イタリア、オーストラリア、日本。世界の縮図といえる。
イタリアやギリシアでは、ツアーに現地人ガイドを付けることが、法律で義務づけられていることを、先に書いた。飛行場へ行くバスに最初のガイドが乗らなかったので、2番目のガイドが途中の交差点のところで、乗り込んだ。ただ単に法的に必要なために頼んだガイドといえた。
2番目のガイドは、ギリシア人と結婚し、ギリシアに40年間住んでいる日本人女性だった。 このガイドが、待ち合わせ場所になかなか現れなかったので、渋滞中の他の車に迷惑をかけながら、私たちのバスは15分ほど交差点で立ち往生した。
やっと現れたガイドに、添乗員が待ち続けたことを話すと、「ごめんなさい」もいわずにまくしたてた(その女性は、日本人ではない日本人になっていた)。「約束の時間は5時10分だったでしょう。私は遅れないように、朝早く起きて、約束の時間よりも30分も前にここへ来たのよ」。
彼女は、腕時計とバスの時計を見比べて、彼女の腕時計が狂っていることを知った。「え?今の時刻は4時40分じゃないの。あ、私の腕時計が止まっていた」。
バスが動き出してから、いろいろな話題を、前後の脈絡もなく話し続けた。「野口みずきさんが結婚したのを知ってる?ギリシアが暑いっていっても、日本の蒸し暑さにはかなわないわ。年金が毎年減らされるのよ。生活が苦しくなって大変よ。息子が2人いるけれども、仕事のことで弱っているわ。あっちに見えるのがオリンピック・スタジアム。見えますか?見えない?もっと背伸びしてください....」。
そのガイドは、にこやかにほほえみながら、アテネ空港でセキュリティ・チェックを受ける私たちを、最後の最後まで見送ってくれたのです。ああ、疲れた。