Essay 85

街全体が世界遺産、プラハそぞろ歩き

2023年12月14日
和戸川 純
プラハの地図


2023年10月24~29日にプラハに滞在
(50年程前にチェコ東部のブルノに2年間滞在)
世界遺産の街の全貌
動画1.北のプラハ城と南のヴィシェフラド公園から展望したプラハ市街

チェコは、ロシアを除いたヨーロッパ大陸のほぼ中央に位置する。チェコ人は自国を「ヨーロッパのへそ」と呼ぶ。皇帝カレル4世の神聖ローマ帝国の首都として、14世紀にプラハが繁栄を極め、「黄金のプラハ」と称された(日本は鎌倉幕府滅亡後の南北朝時代)。大戦の戦禍を被らなかった街に、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロック、アール・ヌーヴォーなどの各時代の建築様式の建物が、全て残っている。この街の全体が世界遺産になっている。

世界最大級の城郭であるプラハ城は旧市街の北西に位置し、ボヘミア王国によって9世紀に建設されたと考えられる。プラハ城から南南東4kmのところに、ヴルタヴァ川沿いの高台ヴィシェフラド(高い城)がある。ここに7世紀頃に城が建てられた。現在は城がなく、よく整備された美しい公園の中に聖ペテロ聖パウロ教会が立っている。プラハはプラハ城とヴィシェフラド城の間に作られた街だ。

おとぎの国のような旧市街
動画2.中世の雰囲気が漂っている旧市街広場

15世紀にヤン・フスが教会の改革運動を開始し、ルターの宗教改革へつながった。フスの銅像が旧市街広場に立っている。天文時計は、15世紀に製作された機械仕掛けのからくり時計だ。太陽や月の位置などを示す文字盤と月々を表す暦版、それに12使徒が時間ごとに動く人形仕掛けから成る。この頃、日本は戦国時代だった。チェコが、高度な技術を有する世界有数の工業国だったことが分かる。

動画3.旧市街広場の夜

旧市街広場の周囲に小路が網の目のように走っている。目を皿にして散策をすれば意外な発見をする。日本で見かけない小物を売っている店がある。このページで公にできない秘密の場所がある。昼でも夜でも、観光客でごった返している通りや広場で、地元の人たちが犬や子供を連れて散歩をしている。暴力的な犯罪が少ないことを示唆している日常風景だ。

旧市街広場の開放的な屋外カフェは、観光客に人気がある。国民一人当たりのビール消費量が世界一のチェコ人が愛するチェコビールと、多彩な料理を楽しむことができる。
上の動画に現れるレストラン「Kavarna Obecni Dum」のおじさんウェイターは、「日本人ですか?私は友達です。生ビールおいしいよ。大きい(大ジョッキ)のにしますか?この料金にチップは含まれていません」などと、日本語を連発する。

動画4.カフカの生家と墓

旧市街広場の北の方にユダヤ人が多く住んでいた地区がある。その入り口辺りに存在している建物の中にカフカの生家があり、周辺はカフカが目玉の観光名所になっている。ストリートパフォーマーがカフカ通りで音楽を奏で、カフカ博物館が観光客を引き寄せている。カフカが書いた暗い世界とは程遠いが、この現状こそが不条理に満ちた世界と言えそうだ。

カフカの小説を感覚的に好む日本人が多く、カフカの墓は人気スポットの一つになっている。地下鉄A線のZelivskeho駅から地上へ出ると、目の前に広大なOlsany墓地が広がる(地図を参照)。その南東の一角が新ユダヤ人墓地になる。動画で示したように、門を入ると目の前に「Dr. FRANZ KAFKA ➡250M」の指標看板を見る。右へまっすぐに歩けばカフカの小さな墓に行き着く。

動画5.ガザ侵攻の影響

ハマスがイスラエルへ奇襲攻撃をして、約220人を人質として拉致した。私のプラハ滞在中に、イスラエルによるガザ侵攻が開始された。旧ユダヤ人墓地の塀に、人質の顔写真付きポスターがずらっと並べて貼られた。名前から判断してユダヤ人が多いように思われた。人質の中には54人のタイ人がいるが、アジア人のポスターは1枚もなかった。約3万人のタイ人がキブツなどで農業に従事している。「犠牲者は常にユダヤ人」という作意が感じられるポスターの貼り方だ。
墓地から100m程しか離れていない広場で、パレスチナを支援する集会が開かれていた。

イスラエルとパレスチナの相克の源に、アラブ世界内部の激しい闘争と、ローマ帝国の覇権拡大の歴史がある。現在の紛争は、第2次世界大戦後に、パレスチナ人が住む土地にユダヤ人が建国することを、イギリスが助けたことに端を発する。イスラエルは国際法を無視し、パレスチナ人の土地を強奪し、裁判なしでパレスチナ人を刑務所へ送り込み、抗議するパレスチナ人に暴力と殺人で応じる。イスラエルの閣僚が、ガザに核爆弾を落とすのも選択肢だと発言した。人口過密なガザに核爆弾を落とせばジェノサイドになる。被害者を自称するユダヤ人が加害者になっている。

ヴルタヴァ(モルダウ)川沿いの景観
動画6.カレル橋のにぎわい

45年の歳月をかけて1402年に完成した、500mを超える長さの石の橋カレル橋。橋の上に多くの露店が並び、ストリートパフォーマーが芸を演じ、画家が似顔絵を描いている。

動画7.クルーズでカレル橋の下を通過

チェコ橋のたもとからいろいろなクルーズ船が出ている。豪華なディナーを提供する船がある。川面から手っ取り早くプラハの美しい街並みを鑑賞したいならば、2時間のクルーズが手頃だ。カレル橋を下から見ることができる。

動画8.ファーマーズ・マーケットで軽食を堪能

生産者が消費者に直接販売するファーマーズ・マーケットが、いくつかある。その中ではナープラフカ・ファーマーズ・マーケットが最も大きい。カレル橋を通り過ぎてヴィシェフラド公園へ行く途中のヴルタヴァ川河岸で、毎週土曜日に開催される。野菜や花、果物だけではなく、パン、ソーセージ、ハンバーガーやスープ、ビールなどの食品、それに食器などの日用品が販売されている。お祭り気分で店を見て歩きたい。

動画9.人を恐れない白鳥の群れ

ファーマーズ・マーケットの対岸の岸辺が、白鳥たちの溜り場になっていて、羽づくろいに熱中している。見物人が傍にいても気にする素振りを見せないが、ボス白鳥だけは例外だ。人ばかりか散歩している犬もいるので、周囲に注意を払っている。無視して通り過ぎればいいのだが、羽根を広げて威嚇するボス白鳥を怖がって、後ずさりする若いカップルがいた。ボスが彼らを執拗に追いかけた。

動画10.絶景スポットのヴィシェフラド公園

かつて城郭があったヴィシェフラドに、現在は聖ペテロ聖パウロ教会が立っている。公園自体が美しいだけではなく、公園から下を見下ろすとヴルタヴァ川の絶景に心を奪われる。

スメタナ、ドヴォルザーク、チャペックの墓
動画11.聖ペテロ聖パウロ教会付属の墓地を探索

聖ペテロ聖パウロ教会の横の墓地に、スメタナ、ドヴォルザーク、チャペックの墓がある。小さくまとまった墓地なので、3人の墓を見つけるのは容易だ。墓地の入り口にある案内板で位置を確認できる。

スメタナの墓石には音符が刻まれている。音楽家の墓であることがすぐに分かる。スメタナの代表作「わが祖国」に「ヴルタヴァ(モルダウ)」が入っている。ヴィシェフラド公園からヴルタヴァ川を眺めたあとにスメタナの墓を訪れると、感慨がより深くなる。
チェコの代表的な作家であるチャペックは、SF(戯曲)の「ロボット」や「山椒魚戦争」を書いた。「ロボット」は1920年に発表され、この戯曲で、ロボットという言葉がチャペックによって創られた。当時のチェコはヨーロッパ有数の工業国で、それが「ロボット」を生み出した時代背景になっている。この作家の知名度に比べて墓は小さく地味だ。本の形をした石が墓石の一部になっていることくらいしか、他の墓との違いがない。
ドヴォルザークはイギリスやアメリカでも活躍し、各国から様々な栄誉を受けた。交響曲第9番「新世界より」の第2楽章に歌詞が付けられ、唱歌「家路」として親しまれている。特別区画に立つ銅像が、チェコの英雄であるドヴォルザークの墓で、スメタナやチャペックの墓とは扱いが明確に異なる。

1000年以上の歴史が凝縮されたプラハ城
動画12.坂を上ると眼前に現れる圧倒的な建造物

プラハ城の中心にあって偉容を誇る聖ヴィート大聖堂、それに旧王宮や黄金小路の家々など、様々な建築様式の美を目の当たりにすることができる。この観光客が集まるプラハ城が、チェコの大統領府になっている。

動画13.聖ヴィート大聖堂内の美

大聖堂内の装飾が見事だが、特にステンドグラスの美しさに圧倒される。

チェコ人の魂が宿っているヴァーツラフ広場
動画14.ヴァーツラフ広場で戦車と市民が対峙

旧市街程度の小さな町だったプラハを、カレル4世が14世紀に拡張した。そこが新市街と呼ばれる。新市街にあるヴァーツラフ広場はしばしば大きな事件の舞台になり、苦難の歴史を背負っているチェコ人の魂が刻まれた。ヴァーツラフ広場を見下ろす国立博物館の前に、聖ヴァーツラフの騎馬像が立つ。聖ヴァーツラフはボヘミア王国の最初の王で、民族を守った英雄として語られている。

第2次世界大戦後に、チェコスロヴァキア(のちにチェコとスロヴァキアに分かれた)はワルシャワ条約機構(ソ連)の社会主義圏に組み込まれた。1968年に「人間の顔をした社会主義」を標榜するドプチェク共産党第一書記が、「プラハの春」と呼ばれる民主化運動を主導した。社会主義体制への挑戦と受け取ったソ連が、ワルシャワ条約機構の20万人の兵士と数千両の戦車でチェコスロヴァキアへ侵攻した。
数百人のチェコスロヴァキア人が犠牲になった。ヴァーツラフ広場が、戦車と市民が対峙する象徴的な舞台になった。聖ヴァーツラフの像や国立博物館に無数の銃弾が撃ち込まれたが、その痕跡は消され、現在は跡形がない。聖ヴァーツラフ像の下で抗議の焼身自殺をした若者がいた。市内にある共産主義博物館に、社会主義体制下における過酷な日常生活の証拠が展示されている。ヴァーツラフ広場で撮影された戦車と市民が対峙する場面の映像を、この博物館で見ることができる(上の動画)。

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私は、この侵攻のあとで東部のブルノに2年間滞在した。大学院の政府交換留学生だった。ブルノには、メンデルがエンドウ豆の研究をした修道院がある。
ブルノで、占領軍に抗議するデモの写真を撮ったために警察によって拘束され、カメラが没収された。私と同じ扱いを受けたチェコ人が、共産主義博物館の映像に現れる。その白黒の古い映像を見て、私自身がチェコの歴史の一部になったような、不思議な感覚を持った。

日本の民主主義はアメリカから与えられたために、日本人は民主主義を軽く見がちだ。状況によっては、民主主義には命を賭して獲得するだけの価値がある。チェコの民主化運動は歴史になったが、今の中国で民主化を求めるのは、命がけになる。民主化とは、言論や表現の自由、信仰の自由、移動の自由、経済活動の自由、公正な選挙ばかりを意味するのではない。デモを撮影するというような単純な行動の自由も含んでいることを、私は体験から実感した。


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