まず、下の図を見ていただきたい。途中の記述があいまいでも、この図に戻れば、私が述べたいことを、きちんと理解していただけると思う。
イエイヌ(家畜化されたイヌを指す)はペットとして飼われている。けれども、人類の歴史において、イヌは単なるペットなどではなかった。 約20万年前に東アフリカで誕生し、地球上の覇者になった私たち現世人類(ホモ・サピエンス、新人)。イヌは、人類が最初に家畜化した動物だ。ヒト・イヌの運命共同体が、他の動物を圧倒する力になった。火や石器と同じように、イヌは人類史を前へ進める原動力になった。
約1万5000年前にイヌが存在したことは、通説になっている。けれども、いくつかの考古学的・遺伝学的資料をもとに、想像をたくましくすると、イヌあるいはイヌの祖先は、もっと古くから存在していた、と結論せざるを得ない。
現世人類の誕生後、それほど間を置かずに、イヌの祖先は人類に寄り添い始めた。約20万年前から1万5000年前までの間に、いくつかのミッシングリンクが存在していることが、イヌの本当の誕生の時期の確定が、困難な理由だ。そのミッシングリンクを、ここで可能なかぎり埋めてみたい。
ノーベル賞を受賞した動物行動学者のコンラート・ローレンツが、20世紀半ばに、心理流体モデルを使って、動物の行動を科学的に観察・分析した。社会を作る動物の行動が、自らを生物学的に変え、進化の原動力の一つになるとした。 ローレンツは、イヌの起源をアフリカのジャッカルに求めた。現世人類は、約6万年前に、アフリカ大陸からユーラシア大陸へ進出した。その時、ジャッカル由来のイヌを連れていた、とローレンツは結論した。 オオカミ直系のイヌもいるが、それらのイヌは例外的と考えた。
1990年代に、ロバート・ウェインが、アフリカを出る前に、現世人類はオオカミ由来のイヌとすでに共同生活を送っていた、と述べた。最近得られた考古学や遺伝学のデータと、ウェインの見解の間には若干のそごが認められる。ローレンツの学説のほうが、無理がなく自然だ。
アフリカで誕生した現世人類は、肉体的には弱者だった。多くの草食獣や肉食獣のようにすばやく動くことができず、サルのように木登りすることもできなかった。毛がまばらにしか生えていない皮膚は、傷つきやすかった。体温を保つのにも、病原菌を媒介するカなどの昆虫から身を守るのにも、適さなかった。
自分の知覚で動物の接近を知り、自分の手で槍を投げ、自分の足で走り、自分の手で動物をねじ伏せなければならなかった。肉体的な弱点を補うイヌを、パートナーとして得たことの意味を、機械文明にドップリとつかった現代人が、実感することは不可能と言える。
ユーラシア大陸には、オオカミ、トラ、ヒョウ、クマなどの猛獣が、広く分布していた。脆弱な現世人類単独では、活動範囲をユーラシア大陸まで広げるのは、間違いなく困難だった。ローレンツやウェインが述べたように、アフリカを出る前に、イヌあるいはイヌの祖先とすでに生活共同体を作っていた可能性が、とても大きい。
集団性動物のジャッカルやオオカミは、群れの中での協力関係を発達させた。メスが狩猟に出かけると、オスが乳飲み子の面倒を見ることを、普通にやる。その子孫のイヌは、共同生活をする人間と常に行動をともにした。人間は、イヌの力を借りたことによって、食用動物の捕獲が容易になっただけではなく、危険な肉食獣から身を守ることができた。
約6万年前にアフリカを出た現世人類は、ヨーロッパやアジアへ居住地を広げた。ヨーロッパには、ネアンデルタール人(旧人)がすでに住んでいた。 筋肉が発達し、肉体的に強靭なネアンデルタール人。ネアンデルタール人は、人間であろうと動物であろうと、どのような敵にも対抗できる能力を持っていた。ところが、あとから到着した、肉体的に脆弱な現世人類のクロマニヨン人によって、約2万5000年前までに絶滅させられた。
クロマニヨン人は、約4万年前から1万年前まで、ヨーロッパ大陸に住んでいた現世人類だ。クロマニヨン人の直系の子孫が、ヨーロッパ、北アフリカからインドにかけて住んでいるコーカソイド(コーカシア人:ヨーロッパ人、アラブ人、インド人など。学術的にはヨーロッパ人などの呼称はない)だ。ユーラシア大陸の東方へ進出した現世人類が、モンゴロイド(黄色人種)になった。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人の間の決定的な差は、知能だったわけではない。ネアンデルタール人の脳は大きく、高度な石器を作る技術を持っていた。その集団はよくまとまっていて、組織的に動いた。決定的な違いは、クロマニヨン人がイヌを飼っていたのに対して、ネアンデルタール人が、イヌを飼っていなかったことだ。
イヌの祖先は、東アジアに住んでいたタイリクオオカミで、約1万5000年前にイヌになったという通説は、ミトコンドリアDNAの解析などによって、支持されている。
DNA解析を絶対視することの危険性を、あとで指摘する。ここでは、この通説が正しいとする。すると、
東アジアでオオカミを家畜化したモンゴロイドが、イヌを連れてヨーロッパまで移動したことになる。そんなことがあり得たのだろうか?
この通説に反して、もっと古い時代からクロマニヨン人がイヌと生活をしていたことが、遺跡から分かっている。
クロマニヨン人が住んでいたベルギーの洞くつで見つかった、約3万6000年前のイヌ科動物の頭骨は、オオカミよりもイヌに近い。この発見と、ネアンデルタール人絶滅の時期との間には、整合性がある。
クロマニヨン人が約1万5000年前に描いた、ラスコーやアルタミラの洞くつの壁画には、狩猟の対象である動物が数多く描かれているが、ヒトもイヌも登場しない。このことから、ヒトとイヌが、この時代までに、高度な共同生活を送るようになっていたことを、推測できる。ヒトとイヌは、同列の存在と考えられたのだ。
肉体的に強靭なネアンデルタール人は、クロマニヨン人が現れるまで、イヌの助けを借りなくても生存できた。ひ弱なクロマニヨン人は、イヌの力を借りることによって、狩りや居住地をめぐる争いで、ネアンデルタール人に勝つことができた。同様の争いは、アジアに住んでいた旧人と、モンゴロイドの間でも発生したはずだ。イヌを連れた私たちの祖先が、旧人との争いに勝ったおかげで、今現世人類が地球上で繁栄している。
ユーラシア大陸のどこかで、ジャッカルとオオカミが共通の祖先から枝分れしたのは、200万年~100万年ほど前のことと推測される。ジャッカルは、誕生後間もなくアフリカ大陸へ進出した。現在のジャッカルには3亜種あり、ユーラシア大陸南部から、サハラ砂漠を除いたアフリカ大陸全域に生息している。オオカミは、アフリカと南米の大部分を除いて、ほぼ全世界に分布している。このことから、 共通の祖先から、暑い気候に適応した個体がジャッカルになり、寒い気候に適応した個体がオオカミになった進化のルートが、うかがえる。
氷河期だった約10万年前に、オオカミがアフリカ大陸へ入った。寒冷地に適応していたオオカミにとって、アフリカは当時十分に寒かった。 間氷期が始まり気温が上昇すると、アフリカはオオカミが住むには過酷な地になった。 アフリカのオオカミは、すべて絶滅したと思われた。ところが、4000mのエチオピア高地に住む、ジャッカルと思われていた動物が、オオカミであることが最近のDNA解析で分かった。
図1を見ていただきたい。この時間系列を考慮すると、急速な温暖化だけではなく、現世人類が、すでにイヌあるいはイヌの祖先と共同体を作っていたことも、アフリカ大陸へ入って来たオオカミの大多数を死滅させる、要因の一つになった可能性がある。
現世人類が誕生したアフリカ大陸で、オオカミからイヌが分化したとは考えられない。現世人類と共生関係に入ったイヌは、ジャッカル由来だったと結論できる。図2で、南へ伸びたジャッカルの移動経路の東側に、現世人類の誕生地がある。ここで両種が出会ったかもしれない。現世人類が早い時期にサハラ方向へ進出したことを考えると、バセンジーの祖先が誕生する地でも、両種が出会った可能性がある。
最近のDNA解析から、現存するイヌの中では、バセンジーが進化的には最もオオカミに近く、最古の犬種であることが分かった( エッセイ16「バセンジーがやって来た」 )。ただし、エッセイ16で引用した研究では、ジャッカルが調査対象に入っていなかった。 他の多くのDNA解析でも、ジャッカルが入っていないことに注意が必要だ。エジプトとエチオピアに住んでいるキンイロジャッカルのDNAは、インドや中国のオオカミに近いので、注意をしなければ、イヌがキンイロジャッカル由来であっても、オオカミ由来と間違って結論してしまう。
暑い気候に適応したジャッカルは、アフリカ大陸で100万年以上も居住地を広げ、進化を遂げた。サハラが、まだ大草原に灌木が散在するサバンナだったときに、サハラ全域に生息していた。けれども、サハラの砂漠化が、生息地を大陸北部と南部に切り離した。現在は、大陸北東部にキンイロジャッカル、サハラ以南の大陸中部にヨコスジジャッカル、南部にセグロジャッカルが住んでいる。 バセンジーはキンイロジャッカルから分化した。
バセンジーが、アフリカで誕生したジャッカル系のイヌだとしても、別の亜種に分化したジャッカルがいたと思われる。チズムなどがその候補に入る。タッシリ・ナジェールの壁画(写真4)に、丸尾と直尾のイヌが描かれていることからも、いくつかの亜種がいたことを推測できる。
現世人類は、ジャッカル由来のイヌと一緒にユーラシア大陸へ進出した。ただし、イエイヌの祖先がジャッカル系であれ、オオカミ系であれ、イヌ属のイエイヌ、オオカミ、ジャッカル、コヨーテは交雑可能で、子孫に繁殖力があるので、進化の途中で血が複雑に混じり合ったことが、十分に考えられる。
約20万年前に、大陸東部のマラウイ湖周辺のサバンナで、現世人類が誕生した。人類と、やがてイヌになるジャッカルとの関わり合いがどう始まったのかは不明だが、次のように想像できる。
両者の居住地が重なる程度のゆるい関係が、意外に早く始まったかもしれない。 ジャッカルの群れの強いリーダーが、異種動物である人間に接近した可能性は、小さい。人間に接近したのは、人間が自分の生存の助けになることを直感した、群れの中でも特に弱い個体だった可能性が大きい。群れからのおちこぼれが、迅速に移動する自分の群れよりも、定住した人間集団の周囲に生活の場を求めたことが、考えられる。
バセンジーを飼っていて気づいたことがある。 バセンジーは、他の野生動物に比べれば、人間と同じように、肉体的には弱者の部類に入る。からだは祖先のジャッカルよりも小さく、体長は40~50cmだ。生えている短毛の毛の数が少ない。皮膚の斑点が、毛を通して見えるくらいだ。特に腹側は、皮膚がほとんどむき出しになっている。その皮膚は柔らかく、灌木の先に引っかかったくらいで傷がつく。
人間とバセンジーの組み合わせは、間違いなく弱者共同体だった。バセンジーの現在の生息地が、コンゴから中央アフリカにかけて住む小柄なピグミー族と重なることが、それを象徴的に示している。
祖先がオオカミだったとしても、弱い個体が人間に近づいてイヌ化したと思われる。互いに弱いからこそ、生存のために、自分の弱点をおぎなうパートナーが必要になる。 ヒトがゴリラのように強靭だったならば、パートナーのイヌを必要としなかった。イヌの祖先がライオンのように強靭だったならば、ヒトを必要とはしなかった。
周囲をうろつくジャッカルに、自分たちを攻撃する意思がないことを、人間はすぐに気づいた。聴覚や嗅覚が鋭敏で、敏捷に行動するジャッカルが、自分たちの生存の助けになることにも気づいたはずだ。そうやって生活の場が重なり合うようになった。
ヒトとの協調関係は最初はゆるやかだった。イヌ化のための助走期間が長かったと思われる。それが、考古学や遺伝学分野の情報だけから判断したのでは、イヌになった時期が、実際よりも遅く見積もられる理由になる。
自然環境に適応していたジャッカルが、人間環境に適応するため、本来の行動を根本的に変えなければならなかった。その過程で、肉体的のみならず心理的な形質も大きく変化した。人間環境により適応した個体が選抜され、子孫の個体数を増やすことになった。遺伝形質の変化が蓄積された。やがて、「イヌ」と明確に判定される遺伝形質を持つようになった。同時に、モリスが「人間動物園」で書いたように、ヒトはイヌによって家畜化された。ヒトにも大きな変化があったのだ。
ヒト・イヌの弱者運命共同体は、地球上の動物間の生存競争において、1+1=2をはるかに超える相乗効果をもたらした。
ジャッカルと同じような自然環境下に住むオオカミは、形態的にはジャッカルによく似ている。上のアフリカオオカミは、最近までジャッカルの一種と考えられていた。アフリカ進出後10万年も経たないうちに、タイリクオオカミの形態がここまで変わった。 現世人類は、ユーラシア大陸へ進出後1~2万年で、ネグロイド(黒人)からコーカソイド(白人)とモンゴロイド(黄色人種)へ分化した。 現存する形態学的に多様な犬種の多くが、ここ数百年の間に人間によって新しく作出された。
遺伝子はとても柔軟で、発現形質が、短期間のうちに環境によって劇的に変わる。見た目だけでは、種の近縁関係は分からない。これを頭に入れておかないと、生物の進化を論じるときに大きな間違いを犯す。
図2の地図は、約8000年前のアフリカを示している。当時は雨量が多く、サハラにはサバンナが広がっていた。今や消えつつあるチャド湖だが、当時の湖面は大きかった。サハラ西部には、大西洋へ流れる巨大な川が存在した。サハラ中央部の山岳地帯周辺には、密林があったと思われる。
サハラへ進出したジャッカルは、広大な草原に適応した子孫を生み出した。より細身で足が長いハウンドがそれだ。 からだ全体がバネのようにしなり、高速で草原を駆け抜けることができた。タッシリ・ナジェールの壁画に描かれたイヌ(写真4)も、古代エジプトのチズムも、典型的なハウンドの特徴を示している。
サハラへ進出したジャッカルから、バセンジーの祖先が誕生したのは、3~4万年前と推測される。バセンジーの体形はハウンドよりもジャッカルに近い。ハウンドからバセンジーが生まれたのではなく、両亜種は、ジャッカルを共通の祖先として分化した可能性が大きい。 ただし、バセンジーからハウンドが生まれた可能性が残る。
サハラ中西部の分水嶺タッシリ・ナジェール(図2)には、多くの壁画が残されている。8000年前頃から紀元前後まで、新石器人によって描かれた壁画だ。当時、この分水嶺の周辺は緑におおわれていて、最適な住環境と獲物の動物を提供していた。
上の壁画は、約6000年前~7000年前に描かれた。 人々が狩をしている様子が描かれている。人間よりも迅速に行動できるイヌが、まず獲物を追いつめ、人間がとどめを刺している。最強の共同作業だ。 左上のイヌは、バセンジーに特徴的な丸い尾を持っている。中央のイヌの尾はもっと直線的だ。これら細身のイヌの外見的な特徴は、一つに固定されていない。すなわち、多様な犬種が存在していた。
古代エジプト王朝が成立したのは約5000年前で、上の壁画は約4500年前に描かれた。チズムは、写真4の丸尾のイヌにとてもよく似ている。生息地が、エジプトにまで広がっていたと考えることに、無理はない。 純系チズムは、現在は存在しない。そこが、純系が今でも存在するバセンジーとは異なる。
バセンジーとチズムの間には体形的な違いがある。ラッキーがそうだが、バセンジーはチズムほどには細身ではなく、足がやや短い。バセンジーは、平坦な大地が続くサバンナよりも、中央アフリカからコンゴにかけての、自然環境がより複雑な地域へ適応している。
バセンジーは小柄で敏捷、足音を立てずに忍者のように行動する。サバンナで獲物を追いかけているときに、草や灌木の陰に隠れてしまうと、ピグミーはバセンジーを見失ってしまう。そこで、狩に出かけるときには、バセンジーの首に鈴をつけて見失わないようにする。
コンゴのピグミー族は、4500年ほど前にエジプトと交流していたといわれる。ピグミー族がエジプトへ出かけるときは、旅の安全のためにバセンジーを同伴したはずだ。このバセンジーとチズムが、エジプトで混血した可能性がある。
図2では、そのようなことを考慮して、黄色い線の1本を、いったん南方へ大きく曲げてから、エジプトへ向かって描いた。けれども、人間がリードする移動ではなく、野生のバセンジーまたはその祖先が、自らこの線をたどった可能性がある。サハラからエジプトへ、直接に移動した個体もいるはずだ。それは、ピグミー族と古代エジプト人が交流するよりも、ずっと前のことになる。
バセンジーの指の間の皮膚が、トリの水かきのように広がっている。サハラのサバンナで誕生したバセンジーだが、サハラが乾燥し砂漠化するにつれて、後退するサバンナを追って移動した。そのとき、砂地を長い距離に渡って歩かなければならなかった。足が砂に埋もれず、歩きやすいように水かき状の皮膚が発達した。
ラッキーを見ていると、バセンジーが、酷暑に高度に適応した犬種であることが、分かる。毛が少ないので、触れれば体温をじかに感じる。体熱の放散が、とても効率的に行われている。真夏の一番暑い日の午後に、直射日光を浴びながら、バルコニーで昼寝をすることがある。イヌのステーキができそうだ。砂漠化する酷暑のサハラで生き延び、我が家まで来てくれたバセンジーに感謝。
乾燥化は、サハラ中央部から北部にかけての平原で、6000年前頃から始まった。当時はまだ、現在は砂漠化している、スーダンからエジプトにかけての地域に大河が流れ、農業が営まれていた。
古代エジプト王朝が成立する5000年前頃には、サハラ中央部の砂漠化がかなり進んでいた。 サハラの砂漠化に追われて、バセンジーは、東方(スーダン、エジプト)や南方(中央アフリカ、コンゴ)へ移動した。気候変動を考慮すると、バセンジーがエジプトの地で古代エジプト人に出会ったのは、偶然ではなく必然だったことになる。
その後もサハラ東部の乾燥化が進み、エジプトの地への移動は、乾燥しきった砂漠の広がりによって不可能になった。バセンジーの移住が途絶えたことが、古代エジプト王朝の崩壊とともに、エジプトにバセンジーがいなくなった理由になる。
バセンジーには、南方へ移動することしか、選択の余地がなくなった。現在の生息地は、カメルーンから中央アフリカ、コンゴにかけての、草原と密林が交錯する地帯に限られている。そこが、バセンジーが誕生した古代サハラの地に似ている、と思われる。
私の以上の推論とは正反対な説があることに、触れておきたい。その説によると、チズムと他のサイト・ハウンドとの交配でバセンジーが作出され、エジプトを訪れたピグミー族が、その作出されたバセンジーをコンゴへ連れ帰った、とされる。この説にはいろいろな無理があるが、ここではそのことに触れない。
最後に、先進国の人間によるバセンジーの発見と、文明社会への適応の歴史に、触れておきたい。
古代エジプト王朝は、約5000年前から2400年前まで存続した。アレクサンドロス大王が王朝を滅ぼした。宮殿犬として飼われていたバセンジーは、王朝の滅亡とともに絶滅したと思われた。幻のイヌになったのだ。
先進国の人間によるバセンジーの発見は、人間とイヌの関わり合いの歴史の中でも、特筆に値するできごとだった。勇気と熱意を持った人たちが関わったおかげで、人類史に影響を与えたイヌの近縁亜種が、今日本の我が家にもいる。
ピグミー族の居住地は、カメルーンから中央アフリカ南部、コンゴ北部、コンゴ東部にかけて散在している。バセンジーは、必ずしもピグミー族とのみ生活しているわけではないが、現在の生息地のかなりな部分が、ピグミー族の居住地と重なる。タッシリ・ナジェールの壁画に描かれたイヌには、丸尾と直尾がいる。ピグミー族が飼っているバセンジーにも、丸尾と直尾がいる。サハラからコンゴまでの移動の間も、もともとの遺伝形質が保たれた。
古代エジプト王朝の滅亡から2200年後の1868年に、動物学者のシュバインフルトが、中央アフリカでバセンジーを目撃し記録に残した。
1885年に、イギリスの探検隊がコンゴ北部で捕獲し、数頭を連れ帰ったが、全頭がジステンパーで死んだ。2回目は、オス1頭が生き残った。
1930年代の3回目の捕獲において、やっと繁殖が可能なだけの個体数が生き残った。アメリカのブリーダーもアフリカへ渡り、18頭を連れ帰った。イギリスで繁殖していたバセンジーと交雑させ、ジステンパー、腎臓疾患、溶血性貧血などの疾患に、遺伝的に強い個体を作出した。現在アメリカにいるバセンジーの25%は、これら18頭の子孫だ。我が家のラッキーにもその血が流れている。