Essay 8

世界は日本化する

和戸川の関連書籍「誰も知らないオーストラリア
2009年5月15日
和戸川 純
日本人が知らない日本人に対する世界の期待

このエッセイのタイトル「世界は日本化する」は、日本人の意思とは無関係に、自然の成り行きとして日本化という方向へ世界は動く、というニュアンスになる。しかし、筆者はもっと積極的に、「日本人は、世界を日本化させなければならない」という意味も含めたい。
世界の人たちは、意識をするしないにかかわらず、日本的な精神を受け入れようとしている。 これを、日本人が積極的に後押しするならば、日本の国際的な立場が強まるばかりではない。世界に安定と平和をもたらすために、日本人は大きな貢献をすることができる。大げさに言えば、人類史において、日本人が、一つの時代を作り上げることが可能になる。

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このように書き出すと、何事にも控えめ、かつ受動的な気質を伝統的に持っている日本人は、違和感を覚えるかもしれない。
そこで、日本人に自信を持たせるような、事実の列挙をこれからやることにする。多くの日本人が知らない、日本人に対する海外での高い評価が含まれる。

勿論、海外での高い評価を知ったからといって、うぬぼれてはならない。 「うぬぼれることのない日本人」が、世界視野で見たときに、日本人の突出した長所になる。

日本人に対する、世界からの期待を客観的に知ることは、世界をリードするための最初の一歩になる。日本人が世界に対する自らの役割を果たすならば、先が見えなくなっている世界に、希望をもたらすことができる。これを目標にしたい。
このための行動は、冷静な判断に基づいていなければならない。

アングロ・サクソンの現実離れした自意識

人類史において、覇権国家が次々に変わってきた。
精神的・肉体的な強いエネルギーに裏打ちされた、野望、策略、暴力をもとに、アングロ・サクソンは、近代史において世界制覇を成し遂げた。 産業革命が、汎地球的な活動を容易にする技術を、アングロ・サクソンにもたらしたことが、そのような世界制覇を助ける時代背景になった。

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自分に過ちがあることが解っていても、自己を徹底的に正当化するディベートが、当たり前になっているアメリカ人。勝つことが正義なのだ。敗者は、どのように高い倫理に裏打ちされていても、弱者として消え去るのみ。

アメリカの各大統領の演説においては、一点の疑念をはさむ余地もなく、アメリカが完璧なグレート・カントリーということになる。大局的な判断において過ちを犯すことはなく、常に世界をリードする大国。その価値観の前に、世界はひれ伏さなければならない。
オーストラリアでも、メディアや個人は、自国をいつもグレート・カントリーと言う。移民がオーストラリア社会を批判すると、「グレート・カントリーへ来て文句があるならば、自分の国へ帰れ」と言われてしまう。
「グレート・カントリー」という言葉が出た途端に、全ての思考と議論が停止してしまう。

日本人の現実離れした自意識

それに対して、日本人が自国を「グレート・カントリー」と言うのは、聞いたことがない。 今や、極端な国粋主義者でさえも、日本を「偉大な国」とは言わない。

日本人は何か問題があると、即座に「すみません」と謝ってしまう。自分が正しいと思っていても、種々の状況判断から、まず謝ることを選択してしまう。

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外国人から批判を聞くのが好きで、外国人が書いた、日本人に対する辛口の論評がベスト・セラー本になったりする。
山本七平が、いささかふざけた響きのあるペン・ネーム、イザヤ・ベンダサンを使って書いた「日本人とユダヤ人」。最初は、日本人についての外国人が書いた辛口評ということで、話題になった。

日本人の心理は、劣等感の方向へ完全に傾いているわけではない。劣等感と優越感の間で微妙に揺れ動いている。
ヨーロッパの伝統や文化、それに人間に対して、歴史的にコンプレックスを持っている。ヨーロッパ系の人たちの日本批判には、関心を持つが、アジア系の人たちからの批判には、聞く耳を持たなかった。それどころか、「日本人はアジア人とは違う」と言われることに、快感を感じていた。アジアから抜け出て、少しでもヨーロッパに近づくことが夢だった。
ところが、今や時代は大きく動いている。中国や韓国を初めとするアジアの国々が、経済的のみならず、文化的にも大きな力を持つようになってきた。韓流へのあこがれに象徴的に見られるように、アジアの国が、あこがれの対象になる時代が来た。アジアの国に対して、コンプレックスまでも感じるようになった。

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他の国の人たちに比べて、この自虐的とも見える日本人の精神構造は、世界の中においては欠点にもなる。日本人の立ち位置を、日本人自身が客観的に見つめなければならないときに、判断を狂わせる。客観よりも主観を優先させてしまうからだ。

日本人の正直さに驚いたイタリア人聖職者

世界の人たちは、日本と日本人をどのように見ているのか?
これを客観的に知ることによって、日本人は世界のために、効果的な貢献をすることができるようになる。その貢献は、日本人自身に大きな見返りを与える。

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昨年7月に、フィレンツェ大聖堂の壁面へ、学生を含む3人の日本人が落書きをした。この落書きが、日本で大問題になった。
この事件のあとで、大聖堂のイタリア人責任者はとても驚いた。落書きをされたことに驚いたのではない。日本人のリアクションに驚いたのだ。

自国民による落書きを恥じて、証拠の写真を大学側へ送った日本人観光客。それにただちに反応して、大学側は、落書きをした犯人に厳重処分を下した。そればかりではない。大聖堂に謝罪をし、修理・補修の申し込みまでしたのだ。
大聖堂の責任者には、大学側の対応に驚いている暇はなかった。落書きとは全く関係のない大勢の日本人が、謝罪の手紙やファックスを、大聖堂へ大量に送ってきたのだ。
大聖堂の壁面には、イタリア人を含む各国の人たちが書いた、大量の落書きがある。しかし落書きに謝罪をしたのは、日本人が初めてだった。

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大聖堂ばかりではない。イタリアの大都市には、バスや電車の側面、あるいは建物の壁など、至るところに落書きがある。イタリア人には、落書きをすることに罪の意識はない。それどころか、疑われても決して自分の罪を認めない。責められても決して謝ることはない。

イタリア人から見て、日本人は考えられない程、正直で潔癖なのだ。大聖堂の責任者は、日本人がこのようなリアクションを取ることを、予想していなかった。
大聖堂側は謝罪のみで十分として、修復費用の申し出を断った。同時に、大聖堂の責任者は、イタリア人は日本人を見習うようにと、自国民へアピールを出した。

各種の好感度調査で日本人はトップ・クラス

1.ツーリスト調査で1位

ヨーロッパのホテル業者の間では、伝統的に日本人ツーリストの評判がいい。2007年のツーリストに関する調査で、 ヨーロッパの1万5000のホテルが選んだベスト・ツーリストは、日本人だった。2位のアメリカや3位のスイスを、大きく引き離していた。

日本人は、「マナーを心得ていて、他人に対する振る舞いがていねい」、「ホテルの部屋をきれいに使う」、「とても静かに行動する」など、好印象を与えている。
ホテル・マンが特に評価したのは、日本人は、ホテルに直接的な苦情を言うのではなく、間接的な要望として自分の気持ちを伝えることだった。ヨーロッパの人にはない、そんな遠慮深さが強い印象を与える。

ちなみに2位のアメリカ人は、「一番たくさんお金を使う」、「チップの額が多い」という点で評価された。
最下位はフランス人で、「旅先の国の言葉を使おうとしない」、「地元の料理を試そうとしない」という点が、嫌われている。 ロシア人は、「周囲の人たちを無視して大声を上げながら徘徊する」ことを、嫌われている。

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2.国際好感度調査で1位

タイム誌による、今年初めの国際好感度調査においても、日本人は1位になった。
この調査は、世界56か国の12万人を対象にして、大掛かりに実施された。

好感度ランキングを見ると、1位日本、2位ドイツ、3位シンガポール、4位アメリカ、5位中国などとなっている。
日本の経済力と、科学研究を重視する姿勢が、世界各国から高く評価されている。同時に、 国際問題の解決に武力を使わず、攻撃的な言辞を用いないことも、良い印象を与えている。

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3.世界平和度指数で5位、G8の中で断然トップ

Vision of Humanityという国際機関と、エコノミスト誌の調査部門が協力して、140カ国の政情や治安状況を分析する世界平和度指数がある。2008年度版では、日本は前年と同様に5位になった。 5位というランクは、高いとはいってもトップではないので、特に驚くべきことではないと考える人がいるかもしれない。
しかし、これは調査の内容をよく知る人にとっては、驚くべきことなのだ。

1位アイスランド、2位デンマーク、3位ノルウエー、4位ニュージーランド、5位日本、6位アイルランド、7位ポルトガル、8位フィンランド、9位ルクセンブルグ、10位オーストリア。
なんと日本以外は10位まで、ヨーロッパ系の人たちが住む小国なのだ。 11位に、やっとG8加盟国のカナダが入っている。14位ドイツ、36位フランス、49位イギリス、97位アメリカなど、大国のランクは日本よりもはるかに低い。
日本は、隣国と緊張関係にはあるものの、重大犯罪が少なく、政情も比較的安定していることなどが、評価された。

主要国の中で、日本の評価が際立って高いことが、BBCのコメンテーターにはとても不愉快だった。ニュース・ショーで、手持ちの時間の間、目の前に座っていた、評価機関の委員にずっとかみついていた。このかみつかれた評価委員は、オーストラリア人だった。このオーストラリア人は、日本がいかに平和で安全な国であるかを、一生懸命に説明することになった。

日本のマスコミは、何か事件が起こると、微に入り細に入りいっせいに報道をする。それで、日本は凶悪犯罪がとても多い、というような印象を持ってしまう。オーストラリアなどでは、凶悪犯罪の報道には自主規制がかかっていて、報道だけでは凶悪事件が多いようには感じられない。日本が世界とは異なるこんな現実がある。

ただし、 民主主義のレベルについては、評価が低かった。特にメディアの自由度は、最悪の評価になっている。 5位に甘んじていてはならない。日本にも改善すべきところはあるのだ。

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4.平和貢献度調査で1位

一昨年に、BBCが世界中で行なったアンケートでは、 世界平和へ最も貢献している国として、カナダと並んで日本がトップになった。 上記のBBCのコメンテーターは、自社のこの調査結果を知らなかったに違いない。

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5.インドの重要相手国調査で3位

先日、日本の外務省が、インドの有識者を対象にして、対日意識に関する面接調査をおこなった。この調査のやり方から判断をすると、客観的な調査とは言いにくいが、 最も重要なパートナーとして、日本は、アメリカ、ロシアに次ぐ3位になったことを書いておく。

インドが、急成長する新興国として頭角を現すまでは、日本人は、インドをアジアの貧困国としか見ていなかった。逆にインド人は、植民地時代に宗主国イギリスから、多大な影響を受けたために、自分たちを、アジアの一員としてよりも、ヨーロッパの一員として考えることを好んだ。
インドIT産業のレベルの高さ、急成長するインドを投資先として考える日本人の増加、日本企業の進出などがあって、インドに対する日本人の見方が変わってきている。同時に、インド人の間でも、日本への期待が高まっていることは事実だ。

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6.世界腐敗認識指数で18位

Transparency Internationalは、イギリスに本部を置くNGOで、各国にある支部と連携しながら、世界の汚職・腐敗と戦っている。この組織は、専門スタッフの協力のもとに、毎年各国の腐敗認識指数を発表している。
2008年に、日本のランクは、180か国中、前年の17位から18位に下がった。日本よりもランクが低いのは、19位アメリカ、23位フランス、55位イタリアなどだ。上位には、同点1位のデンマーク、ニュージーランド、スウエーデンが並び、他にスイス、オランダ、オーストラリア、カナダ、ドイツ、イギリスなどが、上位に入っている。

日本については、政官業の癒着が、腐敗の根源として指摘されている。 腐敗度を重視する調査なので、上にあげたいろいろな調査よりも、日本のランクが低くなってしまった。

日本人に対する世界の高い期待

全体的に見れば、日本の国際的な評価は極めて高いと言える。特に G8のような大国の間だけで比べれば、日本は抜きん出て高い評価を受けている。 いささか自虐的な日本人からすれば、このように高い評価を受けていることは、予想外なはずだ。
日本に対する高い評価は、世界が、世界に対する日本人の貢献に期待をしている、と読みかえることができる。日本人は劣等感を捨てていいのだ。それどころか、 世界を積極的にリードできる外部環境が、既に整っている。

日本人が期待される時代背景

なぜこのようになったのかを、少し考えてみよう。
日本人が高い評価を受けるようになった時代背景として、攻撃的なアングロ・サクソンの世界覇権の時代が、終焉に近づいたことをあげてもいいと思われる。

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世界はとても小さくなってしまった。情報はアッという間に世界を駆けめぐる。1日もあれば、世界のほとんどのところへ行くことができる。多国間貿易のネットワークが、網の目のように世界中に張りめぐらされている。
優位に立つ民族や国家が征服できるところは、地球上に存在しなくなった。アングロ・サクソンの野望を展開できる場所は、なくなったのだ。

同質の情報を共有し、判断に優劣がなくなった人間が、過密なほど地球上に存在するようになった。「そこのけ、そこのけ、お馬が通る」は、もはや通用しない。

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現在の世界人口は68億人、人口密度は1平方キロ50人だ。
日本は1平方キロ336人。世界平均の6.7倍になり、世界第34位だ。
ランクの上からは、トップクラスではないように見える。しかし、人口密度が日本よりも上位にある国々は、マカオ、モナコ、シンガポールのような都市国家や、マルタ、バーミューダのような小島国家がほとんどなのだ。面積が日本よりも大きいのは、インドだけだ。インドの人口密度は364人で、日本とほぼ同等になっている。

日本の特徴は、数字が示す人口密度が高いことだけではない。
日本人は、小さな島嶼のさらに小さな山間の平地で、生活をずっと続けてきた。居住可能地における人口密度は、極端に高くなるが、周囲に山があるために、そこから逃げ出すことはできなかった。その山あいの平地で得られる食料は、限定される。
相互扶助の精神で助け合うことでしか、生き延びる方法はなかった。闘争で問題を解決しようとすれば、小さな社会は崩壊した。結果として、穏やかな譲り合いの精神が確立された。

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世界を見ると、人間の生存に必要な水が極端に不足している土地が、広大な広がりを見せている。水資源の心配が全くない日本のような国は、特異な例外になる。

この地球上における居住可能な土地は、日本が歴史上ずっと経験してきたような、過密状態になってきた。水資源は既に乏しくなっている。食料資源も地下資源も枯渇する。 資源が貧しい島嶼で、日本人が全歴史を通して経験してきたことを、世界が今体験し始めている。
日本人の精神や、生きるための知恵が受け入れられる下地が、でき上がったのだ。

出口が見えないキリスト教とイスラム教の対立

狩猟民族と遊牧民族の戦いは、血で血を洗っても決して終わることはない。
東西冷戦は、政治・経済体制が互いに異なる、ソ連が主導する共産主義国家と、アメリカが主導する資本主義国家間の争いだった。それは、主義・主張がからんだ国際的な権力闘争だった。今考えれば、単純な争いだったことになる。

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現在は、国境が消えた世界で、凄惨な歴史にいろどられた、キリスト教を奉じる欧米と、イスラム教を奉じるアラブ世界の、民族と宗教がからんだ対立になっている。これに政治と経済がからむ。
民族と宗教の問題は、合理的な思考を超えたところにある、怨念の感情を人々の間に持ち込んでしまう。血で血を洗う、抜き差しのならない戦いの出口は見えない。核兵器が拡散すれば、世界各地で、大規模な破壊が繰り広げられることが、予想される。

東西冷戦時代には、厭戦気分に落ち込んだ若者たちが、世界各地でデモをおこなった。あるいは、自国が前線になって、全てが破壊されることを恐れたドイツ人の若者が、オーストラリアのようなヨーロッパから遠く離れた国へ、合法的にあるいは違法に移り住んだ。
現在のキリスト教世界とイスラム教世界の戦いにおいては、戦場は限定されていない。オーストラリアでもテロが発生したりしている。

こんな殺し合いを前提にした世界を、根底から変えたいと考える若者が増えるのは、当然の成り行きだ。平和への希求は、生への願望と結びついて、本能の奥底からあふれてくる。

日本人の精神が世界を救う

日本人が気づく前に、世界の人たちが、本能的に日本人の価値を認め始めたことは、皮肉といえば皮肉だ。 対立を避けながら、互いに助け合って生きてきた農耕民族の日本人は、今から世界で大きな貢献をできる。

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日本のアニメ、漫画、ゲーム、Jポップ、現代アートなどのポップ・カルチャーが、欧米やアジア各国の若者の間で、cool(かっこいい)として受け入れられ始めた。
世界のテレビで放映されているアニメの65%が、日本製なのだ。感受性の高い、子供や若者の心理に与える日本アニメの影響は、とても大きい。日本的な価値が、知らず知らずの間に、これらの人たちの心に刷り込まれていく。
ゲーム・ソフトの開発に携わっている飯野賢治は、「日本のポップ・カルチャーの強みはごちゃまぜなこと」と言う。人種や階級、宗教などにとらわれずに、多彩な人や生き物が出てくるアニメ。暴力もエロも純愛もいっしょくたにしたゲーム。各国の音楽をごちゃまぜにしたJポップ。これらが、海外の人々の目には魅力的に映る。
純日本的では距離がありすぎて、受け入れる者は構えてしまう。しかし無国籍ならば、容易に受け入れることができる。しかもそこには、日本人の精神が反映されている。そんな精神が必要とされる、今という時代において、日本で生まれたカルチャーが、世界で受け入れられるようになったことは、自然の成り行きともいえる。

アニメを通して入った日本のお宅文化が、世界中の若者の間で受け入れられている。このお宅文化は、やさしさを基調にしている。終わりのない憎しみや殺し合いを嫌悪する若者は、喜んでこのお宅文化に飛びつく。

子供や若者の心に与えられた影響は、世代から世代へと受け継がれ拡大していく。日本的なものを受け入れることによって、日本的な感覚が植えつけられていく。

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「おしん」が世界中でヒットしたことも、忘れてはならない。「おしん」はとりわけアジア諸国で今でも人気が高いが、エジプト、アフガニスタン、イランのような、イスラム国においても大人気だった。
苦難に会っても、決してあきらめない粘り強さが、共感を生んだばかりではない。義理を大事にし、人間として、他人を思いやることの意味は何かと問いかけるところに、人々は新鮮な驚きを感じた。

このようなストーリーが受け入れられることからも、アングロ・サクソンの闘争世界よりも、日本的な調和世界を受け入れる方向へ、世界の人たちの心が動いていることが分かる。

日本人ができる世界への積極的な貢献

自分たちの立ち位置を世界の中で確保することが、必要なばかりではない。血塗られた、おぞましい闘争がはびこる世界を変えるために、日本人は、どのようにして世界へ影響を与えればいいのだろうか?
その具体的な戦略は?

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人の世で、全ての物事を動かしているのは人。 日本に通じ、日本に好意を持っている外国人の数を増やすことが、日本のためにも世界のためにも重要な長期戦略になる。
具体的には、まず留学生の受け入れだ。良質の教育を与えることによって、将来はその国のリーダーになることができる人材を、日本で育てる。

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日本の教育を、外国人にとって魅力的なものにしなければならない。そうでなければ、そもそも留学生は日本へ来てくれない。
日本の教育に魅力がなければ、政府が打ち出した、留学生の受け入れ枠を満たすことは難しい。文科省が立てた計画に示されている、留学生数達成のために、授業料を安くしたり、特別な奨学金を出すようなことをするのは、止めたほうがいい。
お金を出しても人の心を買うことはできない。教育費の捻出で苦労をしている国民からは、この種の政府援助に対して、厳しい反発を受けることになる。

外国人にとって魅力的な教育は、日本人自身にとっても魅力的だ。優秀な外国人が育つ教育ならば、優秀な日本人も育つ。すなわち、この戦略は日本人自身のためにもなる。
これは、ただ単にお金を出すことよりも困難だが、やらなければならないことだ。

もっとも、 政府がお金を出さなければならないという現実が、日本にはある。OECD各国の中で、対GDP比での教育に対する公の予算は、日本が最低なのだ(国の教育軽視が、日本の教育水準を下げている現状を、エッセイ56「教育と医療の重大な欠陥」に書いた)。 国の教育軽視が、こんな形でこんなところに現れている。これには大幅な改善が必要だ。

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留学生獲得に成功している、オーストラリアの例を見てみよう。

大学によって授業料に差があるので、メルボルン大学を例に取る。留学生の学費にはディスカウントがなく、学部によって差はあるが、平均して年2~3万ドルになる。これに対して、オーストラリア人学生には国の補助があるために、留学生の3~4分の1の6000~7000ドルになる。
留学生の数は多く、メルボルン大学などは、アジアの大学かと錯覚をするくらいに、アジア系の若者をキャンパスの至るところに見かける。留学生の国家歳入への貢献は大きく、資源、農産物、観光に次いで、歳入の第4の柱が教育になっている。

オーストラリア人よりもはるかに多くの学費を払わせていながら、留学生が多い理由の一つとして、やはり教育の質があげられる。自分の頭で考え、大きな努力をしなければ、学生は良い成績を上げられない。大胆な発想でエッセイを書けば、高い評価が得られる。学生に最大限の努力を求め、その努力に対しては大きく報いる教育システム。

それともう一つ、オーストラリアが英語国であること。 英語で教育を受ければ、卒業後に世界のどこでも職探しができる。日本語で教育を受けたのでは、日本以外の国で職を探すのは難しい。

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日本では、若年人口の減少と共に、学生数が不足する大学が出てきた。今後このような大学は更に増える。これらの大学が英語のみで授業をするようになれば、アジアなどから、多くの留学生を間違いなく引きつけることができる。世界で活躍する英語力のある日本人を育てるためにも、そのような大学には大きな意味がある。
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日本の教育改革を言うのは簡単だが、 画一的な教育システムが当たり前になっている日本で、教育者自身が自ら変わらなければ、抜本的な改革はできない。 英語で授業をすることの意味を認めても、英語力のある教授陣の確保は困難だ。予算の増額には大胆な政治決断が必要になる。
しかし、日本人の長所を自覚した上で、日本人の精神が必要とされている、世界の状況を的確に判断し、人類のために貢献をするという強い意思を持てば、できないことではない。人間のやることだ。人間にできる。
チャンスは、日本人が気づく前に日本人に与えられている。


追記:日本の精神を体現した大阪なおみ

2018年9月14日

大阪なおみが、USオープンの決勝戦で、セリーナ・ウイリアムズにストレート(6-2、6-4)で圧勝した。試合直後には、欧米メディアの注目が、なおみではなくセリーナの「驚愕の言動」に向いてしまったのは、致し方なかった。

セリーナが興奮した理由を考えてみたい。まず、事前の予想に反して、ゲームの出だしからなおみがセリーナを圧倒したこと。そこで、客席のコーチが、もっとネットの近くでリターンすることを、身振り手振りでセリーナに命じた。試合中のコーチの指示はルール違反なので、セリーナに警告が出た。これが、セリーナが大荒れになるきっかけを作った。そのあとの荒れ方には多分に演技が入っていた、と私は感じた。

ラケットをたたき壊したことや、「嘘つき」、「泥棒」などと主審にどなったことに対して、ペナルティが課され、なおみにポイントが与えられた。セリーナは、同じルール違反をしても、男性ならばペナルティを与えられないので、女性差別だと叫んだ。
セリーナへの質問。「男性が悪いことをやって許されるならば、女性もやっていいのですか?他の選手が悪いことをやるならば、自分はそれをやらないというのが、人間である選手のけじめではありませんか?あなたは、テニスの女王と言われる女性ですよ」

普通にやればなおみに勝てないことが分かり、なおみを動揺させてミスを連発させることを、セリーナは意図したと思う。あのような大舞台に初めて立った20才のなおみ。セリーナを勝たせたい観客の大ブーイングと合わせて、試合の雰囲気がしっちゃかめっちゃかになれば、まともなテニスができなくなるだろうということくらいは、百戦錬磨のセリーナに分からないはずがなかった。

ところが、なおみの精神の強靭さは、予想をはるかに超えていた。心理的な動揺が全く表面に表れず、ポイントが加算されなくても勝ったことは明白だ。表彰式での発言も驚きだった。勝利者が、対戦相手や観客に敬意を示すだけではなく、自分が勝利したことを謝罪するなどということは、欧米の激烈な闘争社会ではあり得ない。自分のいろいろな思いを我慢と忍耐で押し殺し、相手を思いやる気持ちを表現できるのは、自己犠牲に裏打ちされた精神を持つ、日本人以外には余りいない。ただし、勝負では勝ちしか目指さないと断言したので、なおみが、相手への敬意で勝負を捨てることがないのは、はっきりした。柔道や空手の精神に通じる。

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世界のメディアとネットの個人世論は、なおみに魅了されたことの告白であふれた。試合後のテレビ・インタビューで、「ブーイングは少し悲しかったけれど、共感もできた」と、やさしさと寛大さが入り混じったコメント。そのインタビューがYouTubeに掲載されると、次のようなコメントが書かれた。

「なおみは称賛に値する。ナーバスなところもすごくキュート」、「余りにも美しく純粋」、「謙虚さはアメージング」、「なんてかわいいの。キュートで誠実。小さな天使。みんな愛してるわ」、「なんて落ち着いた少女なの」、「彼女は王者。謝罪なんて必要ない」、「みんな彼女をシャイだと言う。彼女は日本人。彼らは礼儀正しく、振る舞いもすばらしい。彼女を愛している」

日本人女性のやさしさと強靭さが入り混じったなおみの言動が、世界の常識からかけ離れていたことが、まず世界を驚かせた。その精神のすばらしさが称賛された。相手を蹴落とすことしか考えない世界の人たちに、日本人が持つ精神が、驚愕とともに受け入れられることを、なおみが実践で示してくれた。

私の妻はヨーロッパ系。他のヨーロッパ系の人たちと同様に、なおみの言動に感銘を受けた。闘争に明け暮れていることが、世界の人々を不幸にしているのは明らかだ。他人へのおもいやりと自己犠牲の精神が必要と、妻に言った。妻の答は次の通り。

「なおみを見れば、日本人の精神が大事で、欧米の人たちに必要なことが、とてもよく分かります。けれども、理解することと実行することは別なのです。言動を日本人のようにしたいと思っても、日常生活の具体的な場で、どう行動すればいいのかが、他の国人には分かりません」

日本人である私と結婚し、日本に長い間住んでいる、ヨーロッパ系女性の本音だ。日本のアニメなどに触発されて、日本文化にあこがれても、やっていることは表面的なコピーにしかならない。頭で考えるのではなく、無意識に言動として出るようになるには、幼児期からの人間関係を含めた、いろいろな学習の積み重ねが必要になる。なおみの場合は、母親からの影響があるのは勿論、北海道に住んでいる祖父の影響が大きいように思われる。

3才のときに大阪でテニスを始めたが、父の仕事の関係でアメリカへ移住。ハイチ人を父に持つなおみの肌の色は褐色で、日本語をうまく話せない。なおみを日本人とは思わない、という日本人の意見がある。私は、日本人の精神を体現しているなおみを、日本人と思うだけではない。なおみを日本人にしてくれた両親と、日本人になってくれたなおみ本人に、「日本人になってくれてありがとう」と言いたい。これからも「日本人」でいてほしい。試合のたびに、やさしさと強さを兼ね備えた日本人女性像を、世界に示してもらいたい。戦いに疲れた世界に、なおみの小さな光が当たることには、大きな意味がある。

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USオープン決勝戦の数日前に、日本のテレビで、10人ほどの海外の女性ジャーナリストが、対談をした。テーマは、日本人女性を家庭から引き離し、社会で働かせるにはどうすれがいいのか、というものだった。日本をよく理解しているはずのジャーナリストたちが、差別されて家庭に閉じこもっている日本人女性、というステレオタイプな理解しかしていないことが、驚きだった。そんな日本人女性に、「戦え、戦え、戦え」と檄を飛ばす番組だった。私の妻は、対談の中に日本人女性を入れないのはおかしい、と言った。

ロシア人女性ジャーナリストの意見が、最もまともだった。

「ひとつの生き方だけを押しつけるのは、間違っています。各々のファミリーにはそのファミリーの生き方があり、いろいろな選択をできるようにすることが、最も大事です」


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