Essay 13

オーストラリアと日本の夫の素顔

和戸川の関連書籍「誰も知らないオーストラリア
2009年12月6日
和戸川 純
ゴシップが大好きな妻の不満

これから書くことは、私達家族がオーストラリアに住んでいたときの話だ。

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私の妻はオーストラリア人。日本語は下手と謙遜している(?)。確かに、以前習った漢字は使うことがないので、ほとんど忘れてしまっている。漢字の読み書きが不自由なことは事実だ。これには止むを得ない事情がある。
それでも、女性には特技のおしゃべりがある。日本語の会話には余り不自由をしない。日本語で夫婦喧嘩ができるくらいに、日本語会話は達者だ。

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あるとき、日本の会社のビジネス・マンが、オーストラリアへビジネスの契約にやって来た。その人から、妻は通訳の仕事を頼まれた。
契約の儀式は無事に終了。

その後のディナー・パーティーの席で、妻は、日本人とオーストラリア人の言動の違いに、とても強い印象を持った。契約のときには見えなかった本音の言動が、リラックスしたパーティーの席では出てしまう。この傾向は、特に日本人に強く認められる。
夫の私との生活は、余りにも日常的になってしまっている。私の毎日の言動については、特に意識をしていない。けれども、日本人を客観的に見ることのできる場所では、素直な物言いをする日本人の言動が、オーストラリア人と異なることが、とてもよく分かる。

日本人は、自分の家庭のことを何でもしゃべってしまう。良いこと、悪いことを全部。でも、圧倒的に悪い話題のほうが多い。嫁と姑の戦いについて、奥さんがいかにタフでしたたかか、芯が強いか、娘のボーイ・フレンドがいかにだらしがないか、娘がいかに優柔不断か、エトセトラ。
これに対して、オーストラリア人は、家庭のプライバシーに関する話はほとんどしない。特に、日本人がしゃべっているような、自分と自分の家族について、余り好ましくない話題は、口が裂けても話さない。

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そのときまでに、妻は日本に住んだことがあった。日本で初めて経験したこと...家庭内の個人的な話題を、日本人は平気で他人に話してしまう。
おかげで、日本では、家庭内のいざこざまで含めて、いろいろな情報を手に入れることができた。これが妻の好奇心をかきたてた。日本の生活の大きな楽しみになった。ところがオーストラリアに戻ると、こういう個人的な情報が手に入らなくなる。

オーストラリア人と結婚して、オーストラリアに長く住んでいる日本人女性は、オーストラリア化している。自分の家庭の良くない話題は、オーストラリア人と同じように避けて通る。オーストラリア在住日本人妻からは、内輪の話を聞くことができない。期待をして日本人女性と友達になっても、期待は裏切られていた。
そんなわけで、日本で貴重な体験をしてきた妻の好奇心は、オーストラリアでは出口を失ってしまった。それがストレスのもとになった。夕方など、電燈の灯っている家の前を通りかかると、「あの家へそっと入って行って、皆が何をしているのか見てみたい」などと、真剣な顔で言うようになった。

パーティーでは、久しぶりに、日本人から家庭内のゴシップを聞いて、大満足だった。

異なる個人の尊厳のとらえ方

オーストラリア人が家庭内のいざこざを話さないのは、いざこざが何もないからというわけではない。少なくとも、日本人が持っているくらいのいざこざの種は、オーストラリア人も持っている。何しろ、オーストラリアの離婚率は40数パーセントと高いのだ。半分近い夫婦が離婚をしている。

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私の妻はいくらか日本人化している。家庭内の話題を、割合簡単に他の人に話してしまう。そんな妻を除いて、オーストラリア人だけではなく、ヨーロッパ系の人達は、普通、自分の家庭の問題を他人にしゃべることはない。
チャールスとダイアナは例外だった。自分達のスキャンダルを、公にしてしまったこのふたり。このケースは、特殊な環境下に置かれた、ヨーロッパの特殊な夫婦の話だった。自虐的に、何でも喜んでしゃべってしまう日本人とは、背景が違う。

個人主義に徹するヨーロッパ系の人間には、個人の尊厳がとても大事だ。それが、自分の問題や欠点を、他人には見せないという態度に現われる。自分の問題、欠点、弱さを他人に知られるということは、彼らにとっては、自分を否定することにつながってしまう。即ち、自分がひとりの人間として存在しなくなってしまうのだ。

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自虐的と言っていい程、平気で自分の問題や欠点をさらけ出してしまう日本人。外国人が自分をどう見ようと、気にしない日本人。
日本の文化は恥の文化と言うが、この恥は身内に対する恥だった。身内に対してはかなり気をつけるが、全く水知らずの他人に対しては、恥の意識はそれ程強くはない。「旅の恥はかき捨て」という言葉に、その心情がよく表れている。

外国人が日本人を酷評した本が、国内でベスト・セラーになったりする。こんなことは外国ではあり得ない。何かというと自国を「great country」と言うオーストラリア人は、外国人の批判に対しては神経質で、批判を受けると厳しく反応する。

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自分達の悪いことは、何も話さないオーストラリア人。外国人に良く見せようと、必死に頑張るオーストラリア人。日本人の言動はその反対だ。こういう言動の違いが、両方の国の人達を、外国人が正反対の方向へ誤解するもとになっている。国際化の時代に、誤解を生み出す原因になっている。

日本人とオーストラリア人に対する誤解

日本は徹底的に男性優位の社会だという、ステレオ・タイプな誤解が、誰もが知っているように、世界中に広まっている。
日本の男は誰でも、妾や愛人をおおっぴらに持っているし、街では、女性がいつも男性の1メートル後を歩いているというような、「日本からのレポート」が、オーストラリアの新聞に載ったりする。こんなレポートを読むと、自分達の先入観がメディアによって裏打ちされたことになるので、オーストラリア人は安心する。

私達が結婚するとき、妻の両親は間違いなくとても心配した。ただしその心配を、面と向かって私に言うことはなかった。

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オーストラリア人については、逆の誤解がある。日本に、オーストラリアン・ハズバンドという言葉がある。この言葉は、会社が終ったらさっと家に帰って、家事の手伝いをし、休日には家庭サービスに没頭する夫、という意味を持っている。
ところが...ところが、こんな英語はオーストラリアにはないのだ。どうなっているのだろうか?

芝刈りのような仕事は、土、日ともなれば、どこの家でも、夫が庭へ出てやっていると思うかもしれない。しかし、私達が住んでいた通りで、いつも芝刈りをしていた男性は、私と失業中の隣のジョンだけだった。ななめ向かいの家では、いつも奥さんのキャシーが芝を刈っていた。それ以外の家はプロに頼んでいた。

ここで断っておくが、資源国オーストラリアには、大きな会社と言えば、資源関連以外には余りない。このような会社に職を得ることのできる人の数は、極めて限られている。労働力を吸収できる大きな産業がないので、家まわりの細かい仕事をする自営業者がとても多い。芝刈り専門業者も大勢いる。

広い庭の芝刈りは、かなり大変な仕事だ。特に、気温が40度を越える猛烈に暑い夏などは、脱水症になりかねない。私は、「頑張れ、ジャパニーズ・ハズバンド」と、内心で自分を励まさなければならなかった。

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少し、オーストラリアの男性の実体を解剖してみよう。

オーストラリア人と結婚した日本人の女性を、よく知っている人が言っていた。又聞きの話なので、100%真実と、私には保障ができないということを、読む前に心得ていてもらいたい。
オーストラリア人の夫は、自分が外出するときには、いつも自分ひとりで出かける。けれども、奥さんが出かけるときには、必ず自分もついて行く。またオーストラリア人の夫は、家計をしっかりと握っている。奥さんがわずか数ドルを使うときにも、夫の許可を得なければならない。
...こういう例もある、というくらいに捉えておけばいいと思う。もっと日本人に近い実例があることも、間違いがない。

オーストラリアに住んでいる、日本人と結婚している日本人の奥さん達は、間違いなく自由にやっている。女性だけで高いレストランへ行ったり、習いごとをしたり...。

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少し親しくなったオーストラリア人どうしの挨拶の言葉は、「ハイ、マイト!(Hi, mate!)」。
オーストラリアには、メート・シップ(mateship)という言葉がある。これは男性どうしの友情を指している。この友情の中に、女性が入り込むことはできない。

荒れ果てた乾燥の大地が、茫漠と広がるオーストラリア。車でも電車でも、オーストラリア大陸を横断すればすぐに分かる。水溜りひとつない荒野が、海岸線にまで迫っている。生活に必要なある程度の量の水は、各州の州都周辺にしか存在しない。
この厳しい自然の中で、生きるか死ぬかの激しい肉体労働をしながら、土地を切り開いていった移民達。この国の歴史を考えれば、男どうしのきずなを強調する言葉があることは、よく理解できる。

肉体的にタフな男が真の男だ。スポーツ大国オーストラリアの下地は、ここにある。オーストラリアン・フットボールに代表される、激しいスポーツが大好きなオーストラリア人。

メート・シップを交換する場所はパブだ。パブへ行くのは圧倒的に男性が多い。そこで、男性は酒を飲みながら、楽しい時間を過す。スポーツの場も、メート・シップを交換する場所になっている。男性どうしが連れだって、ゴルフをやっている姿はどこでも見かける。

性についても誤解を受けている両国の男性

日本人は、娯楽としてのセックスについても開け広げだ。農耕民族の豊穣が、子だくさんによってもたらされてきた歴史から、このような民族性が作られた。田舎の神社などに、性器のシンボルが今でも飾られている。豊饒のシンボルだ。

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だが、時代は大きく変わってしまった。日本人が、農耕民族として生きられる時代ではなくなった。そのギャップが、国際的な問題を生じさせる。

古来からの性に対するオープンさの延長線上に、日本のセックス産業がある。商業化されたセックスが、これ程公の場で開陳されている国は、他にないのではないだろうか? 電車の車中にぶら下がっている、週刊誌のつり革広告などは、海外で長く生活し、いささか欧米化してしまった私などには、気恥ずかしくなる。テレビも同じだ。
こんな明け広げぶりが、日本の男性は横暴で、女性を蔑視しているという誤解を、外国人に与えるもとになっている。日本の歴史と伝統に裏打ちされた、精神構造を理解しようなどと、面倒なことを考える外国人はほとんどいない。

アラブの女性がかぶっているチャドルにも、歴史を見れば必然性のあることが分かる。だが、そこまで深入りをして、チャドルの意味を理解しようと心がける日本人は、滅多にいない。チャドルの見かけの異様さに圧倒されるだけだ。
そういう意味では、どこの国の人間も同じだ。他民族の異質な風習や言動は、ただ自分達にとっては異質という理由だけで、悪いことと判断しがちだ。

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オーストラリアン・ハズバンドが住んでいる国、オーストラリア。セックス産業はほとんど存在しないと、日本人は考えるかもしれない。ところが、これは大間違いなのだ。若い女性の失業者が多いことも関係しているが、セックス産業は花ざかり。
皆が公に話をしないので、見えにくいだけのことだ。断っておくが、オーストラリアでは、売春は条件付きながらも公に認められている。売春宿はどこにでも作ることができるが、住宅地では禁止とか、受付は女性に限るというような条件付きで、許可されている。この条件もはずしてしまおうという話が、あるようだ。

圧倒的に男性が多かった移民の国という歴史。これが、男性のストレス発散のための必要悪として、売春を受け入れることになった理由と思われる。そして、社会の陰で繁栄するセックス産業を下支えする、国民心理になっている。

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普通の地方新聞を開いてみよう。特に分厚い日曜版だ。
派手な写真などはないので、英語が苦手な外国人は、見過ごしてしまうかもしれない。大変な数のセックス産業の3行広告が、載っている。この広告の数は、どの街でも異常と言っていい程に多い。
これだけのセックス産業が成り立っているということは、当然、それを支える基盤があるということだ。オーストラリアの男性(場合によっては女性も)は、他人に話すこともなく、かなりしばしばセックス産業のお世話になっていることは、間違いがない。

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こんな話があった。あるストリッパーが、幹部を含む警官の会合に何度も呼ばれて、ストリップを披露した。そのあと、警官達に、個人的にセックス・サービスをした。このストリッパーが、なんと警官になってしまったのだ。

この話に、マスコミが喜んで跳びついた。けれども、マスコミに鋭い質問を浴びせられても、女性は強い。
「性格が合っているから警官になったまで。警官になって何が悪いの?」と、ケロッとしていた(この女性は、性格と体がストリップに合っていたから、ストリッパーになったのでしょうね)。彼女の採用を決めた警察幹部のほうが、マスコミに問い詰められてしどろもどろだった(何か、後めたいことでもあるのですか?)。
「前歴を云々して採用を拒否すると、差別になってしまう」などと、訳の解らないことを言っていた。
彼女の職場では、男性警官の皆さんは、出勤が毎日楽しいことだろう。

こんなことが奥さんに知られてしまって、警官の夫達は、家に帰ってどう説明したのだろうか?間違いなく、家庭内でいろいろな紛争があった。けれども、オーストラリアのテレビには、昼の時間帯にゴシップやスキャンダルの番組はない。警官の奥さん達の気持と意見は、表には全く現われなかった。

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こればかりではなく、オーストラリアのイメージ・ダウンになるような報道には、厳しいメディアの自己規制がかかっている。典型的には殺人事件だ。報道は簡単で一過性。日本のように、繰り返し執拗に、殺し方まで微に入り細に入り報道するようなことはない。

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この辺で、大事な結論を書いておこう。
日本人の男性は、世界中の男性のスケープ・ゴートになっている。自ら意図的にやっているわけではないが、結果としてそうなっている。この事実をまず認めなければ、何の改善もできない。

日本人の男性は、もう少し外国人の目を気にして、カッコよく見えるように行動したほうがいい。実体はともかく、イメージ・ダウンになるようなことを隠すという行為は、日本人の言動になじみの薄い外国人向けには、必要なことだ。
これは、日本という国に親しみを感じてもらうために、とても大事。「人」が外国人から好意を得られない国は、いろいろなところで不都合な事態を招く。このことには、大げさに言えば、国の生き残りがかかっている。

ややこしくなってきた男女の関係

ここまで書いてきたような普通の夫婦の話だけでは、片手落ちになる時代になってきた。

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オーストラリアでは、ゲイやレスビアンの存在が、社会的に認知されている。勿論、ゲイのほうが数は圧倒的に多い。ここにも、女性が少なかった移民流入時代の名残があるのかもしれない。オーストラリアの男性の10%は「両刀づかい」、という噂があるくらいだ。

シドニーで、世界最大のゲイ・レスビアン・パレードが毎年開催される。パレードの参加者は1万人を超える。観衆は60万人。このパレードはテレビで実況中継される。
ゲイとレスビアンが、まるでリオのカーニバルのように、シドニーのメイン・ストリートを延々とパレードする様子は、日本人には異様な壮観。油を体中に塗って、てかてか光った裸体に、小さなTバックを付けただけの男性がいる。その男達の尻振りダンス。顔を原色に塗り上げ、頭に大きな羽根飾り、派手な女性のドレスを着たゲイが参加している。女っぽい男の女っぽい踊り、男っぽい女の男っぽい踊り。
「ゲイとレスビアンがこんなにいるの?」と、その参加者の数に驚かされるパレード。

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1970年代に始まった第1回目のパレードでは、ゲイとレスビアンの参加者は警官に暴力をふるわれ、刑務所へ入れられた。
97年までは、警官はどこかのグループに入って、ひっそりとパレードをしていた。ところが、98年からは、ゲイ、レスビアンの警官が、どうどうと警官のグループを作ってパレードに参加している。

参加者は世界中から。ロス・アンゼルスからは数百人のグループが参加する。「ロスにもゲイ・パレードはあるけれども、こんなに大がかりではなく、シドニーですっかり感激している」という、アメリカ人ゲイの感想があった。
今では、これらの人々の権利は、公然と認められているように見える。しかし、活動家にとってはまだ不満なのだ。同性どうしの結婚に対しては、異性間の結婚程には、法律が整備されていないというのだ。

ややこしい時代になってきた。


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