Essay 32

春枝のワーキングホリデイ奮戦記

和戸川の関連書籍「誰も知らないオーストラリア
2013年3月4日
和戸川 純
春枝の決断

宇宙がどうこうという難しい話が続いてしまった。このあたりで閉話休題(?)。今回は、もっとやわらかいテーマでエッセイを書きたい。国外脱出に興味がある若者がよく利用する、ワーキング・ホリデイの話だ。ワーキング・ホリデイでオーストラリアに滞在する、日本人の若者は多い。私たちがまだパースに住んでいたときに、そんな日本人が私たちの家にホーム・ステイした。

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この話の主人公は、埼玉県出身の27歳の春枝。会社勤めをしていたが、会社では先が見えてしまった。結婚する前に、何かやり残したことがあるような気がした。人生の転換点で、彼女は国外脱出を決行することにした。今までの人生とは質的に異なる経験をすることに、大きな意味を見いだしたのだ。
ところが、 春枝がそれまでに海外に出た経験は、たった一回しかなかった。社員旅行でグアム島へ行っただけだった。英会話の能力は、簡単な単語がいくつか口から出るくらい。

私のウエッブ・サイトを見て私に接触してきた。何回かメールのやり取りをしてから、我が家にホーム・ステイをすることになった。

春枝がやって来たのは、オーストラリアでは晩春の11月のことだった。最初は、郊外にある私の家の周囲を歩くのも、おっかなびっくりだった。オーストラリア人に声をかけられるのが、怖かったのだ。

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けれども女性は強い。特に、日本人の女性は強い。 オーストラリアへ着いてから、1ヵ月後に、「ひとりでオーストラリア一周の旅に出かけます」、と言いはじめた。

日本から持ってきた所持金はXX円(はっきり言って少ない)。日本にいる両親はとても心配した。日本人である私の家にホーム・ステイするだけだ、と思っていたからだ。両親は、春枝がオーストラリア一周の旅に出ないようにと、何度も電話をかけてきた。

私と妻も、「春枝さん、それは無謀ですよ」、と春枝に何度も言った。春枝の気持ちをひるがえさせるために、オーストラリアの危険な状況について、具体的な例をあげながら説明した(エッセイ24「日本人女性専門のラブハンター」)。けれども、親でもない私に、彼女を強引に引き止めることはできない。鎖で柱にしばりつけたならば、犯罪行為で、私は刑務所行きになってしまう。私のほうが鎖にしばられてしまう。そんなことはできない。

巨大リュックを背負った旅

私も妻も、春枝が、我が家へ無事に戻って来ることだけを祈りながら、彼女を家から送り出した。巨大なリュックを背負って旅に出る春枝。たくましく見えたが、ひ弱にも見えた。

車で近くのJ駅まで送っていった。巨大なリュック+寝袋+貴重品バッグを車から出して、「ヤッコラサ」とかつぎ上げる春枝。勿論私が手助けをしたが、手助けなしでは立ち上がることが容易ではなかった。

こんな極限状況下で私が言えたこと。
「春枝さん、リュックが重すぎて、とても旅行ができそうになかったら、大陸横断鉄道のインディアン・パシフィックに乗る前に、家に戻ってきていいからね」

春枝の答。
「分かりました。 とても旅行できそうになかったら、すぐに帰ってきます。帰るのは、今日かもしれないし、明日かもしれません。1週間後に戻るかもしれません

春枝にも、100%の自信はなかったのだ。

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ところが、 なんとなんと、春枝が私たちの家に戻ってきたのは、それから7ヵ月もあとのことだった。ちゃんと生きて帰ってきたではないか!日焼けした春枝は、まるで別人のようにとてもたくましくなっていた。 それでも、チャーミングなスマイルは出発時と同じだった。

私は、今までに、世界中で仕事をしてきた。けれども、春枝のように、過酷な状況下で生活をしたことはない。春枝のワーキング・ホリデイ。この記録は後世に残す価値がある(!)。

図:7ヶ月かけて春枝がたどったルート
route
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まず、彼女の足跡をざっとたどることにする。起点になった西海岸の街パースから、インディアン・パシフィックで東へ行った。アデレードを経由して、東部の州をまわった。最初はメルボルンとタスマニア。そして東海岸を北へ向かい、シドニー、ブリスベーン、ケアンズへ。次に、オーストラリアの中央部に入り、エアーズ・ロックを訪れた。そこから北の海岸に出るために、キャサリンを経由してダーウィンへ。次に海岸沿いに西へ向かった。西オーストラリア州の旅だ。エクス・マウスからは南へ下って、コラル・ベイ、モンキー・マイアを旅した。やがて出発地のパース...というわけだ。

旅のルートはこんなに簡単に数行で書けるが、春枝は、一言では言えない苦労をしたのだ。

快適だったアデレードでの生活

J駅で見送った私と別かれてから、市内電車を使って、インディアン・パシフィックが出る、パース東駅へ向かった。駅前で、オーストラリア一周2万キロのバス周遊券を購入した。値段は1600ドルだった。この周遊券を使って、7ヵ月間のバス旅行をすることになった。アデレードまでのインディアン・パシフィックはコーチに乗り、この電車の乗車券の値段は、3000キロで26ドルだった。

まずパース東駅で、英会話が余りできない春枝が、苦労をしながら知ったことがある。 バスの予約は、自分でやったほうがいいのだ。ツアー会社に頼むと、余分な路線まで予約してしまう。 オーストラリアの休日には、宿もバスも満員になるので、早目の予約が必要になる。春枝の英会話は、生活の実践の場で否応もなく上達しはじめた。

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我が家を出発したのは12月12日だった。かなり暑くなっていた。2泊3日の電車の旅でアデレードに到着した。

日本でも有名になったオーストラリア・ワイン。そのワインで一番有名なところが、アデレードの近くにあるバロッサ・バレーだ。昔ドイツ人が入植して、ワインを作るようになった。酒大好きの春枝は、ここでおいしいワインをたくさん試飲した(これは私の想像!)。

クリスマスはアデレードで過ごした。花火大会や音楽会があちらこちらで開催され、とても素敵なクリスマスになった。勿論、教会へも行った。日頃の行ないのざんげをちゃんとやってきた(これも私の想像!)。

バックパッカー・ホテルの現実

アデレードのバックパッカー・ホテルは、きれいでよかった。「これなら快適な旅行ができそうだわ」、と春枝は思った。けれども、その認識は甘かったのだ。 最初に泊まったアデレードのシティー・バックパッカー・ホテルが、最高。その後泊まったどのバックパッカー・ホテルも、アデレードよりも汚かった。 雨水がもる古いキャンピング・カー。そんなホテルもあった。

バックパッカー・ホテルの料金は、1泊12~15ドルだった。ただし、シーズン中は18~19ドルになる。2~12人部屋があるが、 4~6人部屋が普通だ。男女同室のこともある。シーツ代や毛布代を取られるので、安くあげるには、シーツか寝袋を持参したほうがいい。自分のシーツと寝袋が必要なもうひとつの理由は、「ベッドに住んでいる南京虫に刺されないようにするため」、と春枝は真顔で言った。 こんなことは、経験者でなければ分からない。

朝食を出すバックパッカー・ホテルは、ほとんどない。けれども、コーヒーや紅茶は自由に飲めるので、ついでにティー・バッグをいくつか失敬すれば、飲み物代の節約になる。マクドナルドに入ったならば、忘れずに、塩、こしょう、砂糖を失敬したほうがいい。

ユース・ホステルはバックパッカー・ホテルよりもきれいだ。けれども宿泊料金が高い上に、無料のコーヒー、紅茶がない。朝食も出ない。

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バックパッカー・ホテルにロッカーはないので、盗難には特に注意が必要だ。春枝は、自転車のチェーンと鍵を買って、リュックをベッドの脚へしばりつけてから外出した。リュックの口にも鍵をかけた。そんなに注意をしていても盗難にあった。盗まれたのは寝袋のバッグ(??)と40ドルだった。 これくらいの被害ですんだので、とても運が良かったといえる。

彼女はさらに幸運だった。コラル・ベイで、現金やクレジット・カードの入ったサイフを、岩の上に置き忘れたまま遠くへ行ってしまった。気がついて戻る途中で、「もうサイフはないだろう」とあきらめていた。岩の上にはやはり何もなかった。しかし、念のために近くの郵便局へ行った。そして、誰かがそこへサイフを届けたのを知った。中味はひとつも盗まれていなかった。郵便局員は、「あなたは、とってもとってもラッキーだ」、と言った。そのとおり。 オーストラリアで、こういうように自分のサイフが戻ることは、ほとんど奇蹟であることを、憶えておこう。

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私にはこんな経験があった。小学6年生の下の息子とふたりで、ゲーム・センターへ行っことがある。そこで、1台のゲーム機の上に、誰かが忘れていったサイフがあるのを、息子が見つけた。
これはとてもいい教育の機会だ。私はそのサイフを息子に持たせ、レジの女性に渡させた。日本人は、こういう場合には、落ちていたサイフを自分のポケットには入れない、ということを教えたかったのだ。

レジの若い女性は、とても驚いたような顔をして、「オーケー」と言っただけだった。誰かが、こんなかたちでレジにサイフを持ってくることは、あり得ないからだ。この女性は、「ラッキー」と心の中で叫びながら、このサイフを自分のものにしてしまった可能性がある(そのとき、店には他に誰もいなかった)。それはそれで彼女のビジネスだ。私は、日本人が誇ることのできる日本人のモラルを、息子に具体的に教えることができたので、とても幸せだった。

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さて、春枝は、そのあと、オパール堀りで有名なクーバー・ペデイーへ行った。そこのバックパッカー・ホテルは、オパールを掘りだしたあとの穴の中にある。春枝はそこでオパールの原石を見つけた(ホテルの部屋の壁を削ったのかな?)。

そしてメルボルンだ。パースから来た春枝には、メルボルンがとても大きな街に見えた。街が広いので、トラムを使ってあちらこちらをまわった。カジノがとてもきれいだった。もっとも、このカジノは大赤字で青息、吐息だったのだ。倒産する、しないという議論がされていた。そんなことを知らない春枝は、「きれい」といういい印象だけを持った。大晦日にはヤラ川で花火を見た。

バックパッカーの仕事

メルボルンの近くの町のシェパートンには、ピッキング(果物や野菜つみ)の仕事が多い。 ピッキングは、ワーキング・ホリデイの人たちが、オーストラリアの田舎をまわるときに、大事な収入源になる。春枝もシェパートンで仕事をした。けれども、シェパートンに安宿はなく、宿泊料金が高くなってしまい、結局もうけはそんなに大きくはならなかった。

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ワーキング・ホリデイの人たちの仕事について、書いておこう。まず、 仕事を始める前に税務署へ行って、Tax File Numberをもらってくる。

日本人にある主な仕事は、ピッキング、日本料理店、観光ガイド、観光バスの運転、ダイビング・インストラクターなどだ。 英語ができない人には、バックパッカー・ホテルが宿泊客をまとめて連れていく、ピッキングくらいしか仕事はない。 ただし、この仕事はからだの弱い人には無理だ。

バックパッカー・ホテルは、日本の景気が良かった頃に、毎朝路上で浮浪者を狩り集めては、工事現場へ連れていった、手配師のようなことをやっている。 ホテルは、ミニ・バスで農場へ連れていく宿泊客から、ひとり週40ドルくらい、余分に宿泊料金を取るのだ。

ピッキングの仕事は、オーストラリアでは秋に多くなる。5月頃から農場は多忙になる。オーストラリアで野菜を栽培して、日本へ送っていた日本人の話では、北のほうの夏は暑すぎて、野菜はできないそうだ。

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ピッキングの支払いは時間給で、ズキニ、小さく黄色いカボチャのようなスコッシュ、ナス、サツマイモが、9~10ドルだ。

トマトのピッキングを、春枝はふたつの農場でやった。そのうちのひとつの農場では、バケツ一杯につんで11ドルだった。重いバケツを自分で運ばなければならない、この農場の仕事はつらくて泣いてしまった。もうひとつの農場にはベルト・コンベアがあり、トマトをバケツに入れる必要はなく楽だった。こちらは時給9ドルだった。

一番よかったのは、ジャガイモのピッキングだった。ワーキング・ホリデイの人たちが横に並び、皆で拾ったジャガイモを洗い、そして箱につめた。仕事にリズムがあり、他の日本人とおしゃべりができた。これは時給10ドルだった。

仕事は、普通は日曜は休みだが、最盛期には1週間ぶっ続けのことがあった。

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バックパッカー・ホテルの宿泊料金は、農場からの支払いに対するホテルのピンハネ分を加えて、1日17~23ドル(+毛布、シーツ代)なので、2~3時間分の賃金は、宿代に消えてしまうことになる。仕事があるのは、滞在期間中の半分と仮定をすると、1日分の賃金のうち、約5時間分が宿泊費として消えてしまうことになる。 このような生活は間違いなく大変だ。

昼食は自前だ。ピッキングをすると、ピッキングした野菜を食べることができる。野菜を買わなくても済むので、食費の節約になる。けれども、 「パンの間に生の野菜をはさんで食べていました」とか、「生のニンジンはとてもおいしかった」などという感想を聞くと、生活費を最低限に切りつめながら、あちらこちらを旅してまわる、ワーキング・ホリデイの人たちの苦労がしのばれる。春枝は、7カ月で6キロもやせて戻ってきた。 生ぬるい日本の生活からは想像できない、貴重な体験を春枝はしたのだ。

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ワーキング・ホリデイの人たちは、最初は自分で仕事を選べず、手配師バックパッカー・ホテルの言いなりになる。仕事に慣れたならば、自分のやりたい仕事の希望を、ホテルに言えるようになる。手配師が間に入るのをいやがって、履歴書をたずさえ、自分であちらこちらをまわって、仕事を見つけてしまうひともいるそうだ。

農場主は、言葉が通じないこともあって、最初はとても冷たく見える。けれども、「これは冷たいのではなく、何も気にしていないだけのことなのです」、と春枝は説明した。農場主と気があえば、農場にホーム・ステイすることができる。

東部海岸の旅

ふたたび春枝の足跡をたどろう。メルボルンの近くのベンディゴ。ここは、オーストラリアのゴールド・ラッシュが始まった町だ。オーストラリアでは、歴史的に古いほうの町だ。

春枝は、真夏の1月末から2月初めにかけて、タスマニア島へ渡った。「水も空もきれいで、オーストラリアの一部ではないみたい」、という春枝の感想があった。けれども、オーストラリアは、水はともかく、空気はどこでもきれいではなかったんでしたっけ?ラベンダ農場、ワイン・グラス・ベイ、リッチモンド・ブリッジ、ポート・アーサー(大虐殺!!)、クレイドル山、ザ・ナットなど、タスマニアには見所がいっぱいあった。

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シドニーの近くでは、ブルー・マウンテンのトロッコが、とても急な坂にあり、スリル満点で春枝にはおもしろかった。このトロッコには私たち家族も乗ったが、「ジェット・コースターに比べれば大したことがない」、というのが息子たちの感想だった。

ブルー・マウンテンから帰る日の朝に、シドニーへ戻る観光バスに乗り遅れてしまい、ひとりで寂しく電車で帰ることになった、というアクシデントが春枝にあった。 オーストラリアの観光業者は、日本人のように細かく気を使わないので、自分の面倒は自分でみるという覚悟が必要だ。

2月いっぱいをかけて、ブリスベーンの周辺からゴールド・コーストをまわった。サンゴ礁の海と島がきれいだった。フレーザー・アイランドへは、ワーキング・ホリデイの仲間たちといっしょに、レンタ・カーを借りて行き、島内をドライブして楽しんだ。

ブリスベーンから北へ300キロ。 海岸からそんなに遠くないところにある町ブンダバーグ。そこにはピッキングの仕事が多く、3月から5月まで滞在してしまった。

6月2日にケアンズに入った。酒好きの春枝(我が家で、何度も盛大なパーティーをやった)だ。ピッキングからの収入は、ほとんどが、安いカスク・ワインになって消えてしまった。日本から持ってきた金も少なくなってきた。さあどうする?春枝は、ちょっと不安になった。その後は、急げ、急げの旅になってしまったのだ。

中央部から西部海岸への旅

エアーズ・ロックでは、夕焼けに真っ赤に映える巨大な岩に感動した。けれども、冬なのに蚊がたくさんいて悩まされた。私たち家族がエアーズ・ロックを訪れたのは、秋だった。蚊はいなかった。訪れる季節が大事なようだ。

夜中にキャサリンに着いたときのことだった。真っ暗な原野の真ん中で、バスから降ろされてしまった。ホテルのミニ・バスが迎えに来るまで、不安な時間を過ごした。

「キャサリンの町の近くにある、キャサリン峡谷はすごかった」、と春枝は興奮気味に話した。

長い時間をかけて田舎をまわってきた春枝には、北の街ダーウインは大都会に見えた。このあたりには、原住民のアボリジニがたくさん住んでいる。春枝は、異質な生活空間という印象を持った。

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7月に入ってから、エクス・マウス、コラル・ベイ、モンキー・マイアと、西オーストラリア州の海岸をまわった。カメ、エイ、クジラ、マンタ、サメ、イルカなどのよく知られた動物は、期待通りに見ることのできたものがあった。けれども、期待がはずれたこともあった。モンキー・マイアの近くのシェル・ビーチは、春枝のおすすめの場所だ。

写真:この世の天国シェル・ビーチで浅瀬を漂う妻
paradise

ここは、以前に訪れた私たち家族もおすすめしたい。まるでこの世の天国のようなところだ。

シェル・ビーチでは、温かく浅い海が、貝殻の白い海岸に囲まれて、どこまでもどこまでも広がっている。空は、紺青色にあくまでも深い。海水の塩濃度が高いので、からだがとてもよく浮く。 妻もふたりの息子たちも、はるかかなたの水平線へ向かって、流れるように泳ぎつづけた。隠さずに書いてしまおう。妻は、魂が解放されすぎて、ついには素裸になってしまい、さらに波の間に間に漂ったのだ。

春枝は素裸にはならなかったようだ。彼女は、近くにある貝の家の美しさにも、ショックを受けた。

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モンキー・マイアへの定期バスは、エクス・マウスから3日に1便しか出ない。乗り遅れないようにしたい。それに、銀行は、エクス・マウスを出ると、カナーボンやジェラルトンまでないので注意が必要だ。「こんなところも、いかにも浮世離れしていてそれはそれなりにいい感じ」...なんて、実際に現金を切らしてしまったならば、言ってはいられない。 旅行には、クレジット・カードを持っていくことが必要だ。クレジット・カードはどこでも使える。

長期滞在女性への助言

そして、ついに7月13日にパースに帰りついた。我が家へ戻ってきた。駅まで迎えにいったときに、「パースは大都会です」と言って、春枝は感激していた。なにしろ、パースには交通渋滞まであるのだ。

妻が作った、味噌汁をはじめとするしばらくぶりの日本料理に、春枝は大感激だった。彼女は、一味一味かみしめるように食べた。そして、 涙をまじえながら、ここに書いたような旅行の思い出を、語ってくれたのである。やはり、泣きたいほどのとてもつらいこともあったのだ。

パースへ戻ってから日本へ帰国するまでの1週間は、おみやげを買うついでに、日本の会社が開発した、とても美しいヒラリス・ヨット・ハーバーや、日本人の好きそうな小さい店が並んでいる、スビアコ・ショッピング・センターをまわった。

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ここで、春枝のオーストラリア訪問の総括をしよう。春枝には、日本から余りにもたくさんの荷物を持ってきてしまった、という反省があった。東へ行くときに背おっていた、巨大なリュックのことはもう書いた。それにも増して、帰国時に、空港で荷物の重量超過のために、700ドルも払わされたときには、ただ重いという以上に、春枝は青ざめてしまった。当時、オフ・シーズンのときの日本/オーストラリア間の往復航空運賃が、900ドルだった。700ドルの意味は、春枝にとってはとても重かったのだ。

「女性の必需品を含めて、なんでもオーストラリアで買えるので、荷物はできる限り少なくしたほうがいい」 というのが、これからオーストラリアで長期滞在する女性への、春枝からの助言だ。
日本からカップ・ラーメンを持ってくる人がかなりいるが、カップ・ラーメンも、オーストラリアのスーパーで買うことができる...これは私からの助言だ。

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当然のことながら、 「女性には特に夜の行動が要注意です」というのも、春枝から女性への大事な助言だ。ひとりのときは、夜は決して外を出歩かないほうがいいそうだ。

それに、 ヒッチ・ハイクは、ひとりのときには絶対にしないこと。本当のことを言うと、女性はふたりでもあぶない。ふたり連れの日本人女性が、ヒッチ・ハイクの途中で消えてしまったことがある。 街から離れると、無人の広大な原野が広がるオーストラリア。そんなところでは、何があっても助けを呼ぶことはできない。原野で殺されでもすれば、死体は永遠に見つからなくなる。 世界一安全な国日本に比べれば、他国ではどこにでも危険があることを、常に念頭に置いておきたい。

もう一つ、事情がよく分かっていない皆さんへの、私からの注意がある。 オーストラリアでは、日本人には信じられないくらい、麻薬が社会のあちらこちらへ浸透している。特に大量に使われているのはマリファナだ。これはアメリカ以上の広がり方をしている。好奇心から始めて、常習にならないように気をつけたい。

ふたたび、春枝からの助言。
「旅は、はっきりした目的を持っていなければ、全てがただ意味もなく流れ、むだになってしまいます。 しっかりした心構えを持って、あちらこちらを旅すれば、見ず知らずのひとたちと感動を共有できます。これがたまらない旅の魅力です

春枝にとって、今回の旅は、大自然の中を歩きながらも、人間発見の旅だったようだ。

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日本へ戻った春枝から電話がかかってきた。第一声は、「和戸川さん、お寿司をたくさん食べましたよ」

ああ、日本人!


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