人間として生きた犬の心(第2部)
Essay 15

最後まで大きく燃えた命の炎

和戸川の関連書籍「人間として生きた犬の心
2010年3月18日(修正2017年9月28日)
和戸川 純
生活環境の激変

モンタが5才4ヶ月(人38才)のときに帰国し、T市に住んだ。モンタのために、水田や林に囲まれた、郊外の戸建ての家を選んだ。借家だったので、犬を屋内で飼ってはいけないことに、なっていた。ましてモンタは、日本では大型犬だ。

写真19・役に立たなかったモンタの邸宅、5才
monta house

そこで、日本では庭で飼うことを試みた。先発隊として移り住んだ私が、その準備を万端に整えた。庭のフェンスに門を取り付け、モンタが庭から出られないようにした。ホームセンターへ行って、木製の一番大きな犬小屋を買ってきた。芝生の庭が付いている自分の邸宅。モンタは満足するはずだった。

モンタが日本へ到着したときの様子を、 エッセイ11 に書いた。
最初の夜は悲惨だった。庭に一人ぼっちで残されたモンタ。自分の犬小屋へは入らなかった。私のいる家の中へ入ろうと、大声で吠えながら、雨戸を猛烈に引っかいた。最初の日に家に入れてしまえば、そのままになる。私はモンタの吠え声を聞きながら、じっと耐えた。しかし、それには限界があった。
ついに雨戸を開けてしまった。モンタは、猛烈な勢いで私に跳びついてきた。3月だったが寒い夜だった。輸送前に絶食をさせられ、やせほそったモンタは、震えていた。疲れ汚れきったモンタを、タオルでこすっただけで、布団の中へ入れてしまった。

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輸送前に、訳の分からないまま、家族から引き離された。数日間、輸送会社のケージに入れられ、絶食をさせられた。モンタにとっては正体不明の飛行機に乗せられた。しかも真っ暗な貨物室。そして最後は未知の土地でトラック輸送だ。極度の不安状態にあるモンタは、その後、私から決して離れようとはしなかった。

犬小屋へは入ろうとしなかった。それまで犬小屋に住んだことはない上に、犬小屋は輸送用のケージのように見えたはずだ。恐怖の記憶が残る輸送用のケージ。
犬小屋の中に食べ物を入れた。入ることに慣れさせようとしたのだ。しかし、食べ物を取るとすぐに出てしまった。あとから着いた妻は、自分から犬小屋に入ってモンタを呼んだ。閉所恐怖症になってしまったモンタに、そんな努力の全てが無駄だった。

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モンタは日本でも、100パーセントの室内犬になってしまった。

T市の家は、オーストラリアの家よりも壁が薄い。周囲には住宅が立ち並んでいる。家の中にいても、外部の物音がよく聞こえた。モンタは、窓下を通り過ぎる人がいれば吠え、郵便配達夫が来れば吠え、散歩する犬の気配がすれば吠えた。誰かが訪れて玄関のベルを鳴らせば、勿論吠えた。

写真20・ここに坐って通りの観察、7才
watch dog
写真21・初体験の雪、7、9才
snow1 snow2 snow3

周囲の人たちにうるさいので、吠えないようにする方法を調べた。吠えるたびに、酢を鼻先にスプレーした。ひもで結んだ空のビール缶を、足元へ投げることもやった。全てが無駄だった。他の犬ならば衝撃になるこんな方法も、芯の強いモンタには効き目がない。

人なつこいが、心の底にある警戒心は明らかに強かった。ただし、相手のにおいをかげばすぐに落ち着いて、誰でも仲間として受け入れた。

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モンタが9才3ヶ月(人66才)のときに、T市から、現在住んでいるC市のマンションへ移った。これにはかなりの決断が必要だった。大きな空間の中で、自由奔放に生きてきたモンタ。街のマンションは、ストレスが大きすぎるかもしれない。
そこで、場所は公園の多い地区を選んだ。勿論、ペット飼育が可能なマンションがある。

最初の新築マンションに応募したときに、モンタのサイズが問題になった。日本の犬種は、どれもが小さく改良されている。モンタは、オーストラリアでは中型犬に分類されていた。ところが、日本では成長もしていないのに、大型犬になってしまった。そのマンションでは、中型犬までしか認められなかった。

写真22・体長測定に面食らう、8才
measurement

マンションの販売業者が、犬のサイズを測る紙を渡した。10センチ四方の白黒の正方形が入った、モザイク模様の紙。それと一緒に撮った、モンタの写真を提出することを求めた。モンタが、何とか小さく見えるように工夫をして、写真を撮った。それは本社まで送られた。そして入居を断られた。

そのとき、幸運がやって来た。近くのマンションの角部屋を申し込んでいた人が、キャンセルしたのだ。買い主をすぐに見つけたかった業者は、「犬のサイズには目をつぶります」と、言ってくれた。

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その角部屋は4階にあった。中型犬を飼うことは、3階まで認められていた。規則違反の大型犬を4階で飼う。大きなモンタを、なるべく目立たないようにするために、苦労することになった。

その部屋にはバルコニーが3つある。一番小さい北向きのバルコニーの外壁は、コンクリートだ。モンタは誰にも見られずに、そこで用を足すことができた。
エレベーターは使わないようにした。階段の昇り降りは、暑さに弱いモンタには、特に夏には大変だった。モンタの足腰が弱ったときに、モンタを抱えて階段の昇り降りをすることを、私は覚悟した。
けれども、モンタは何の手間もかけさせずに、永眠してしまった。死の当日まで、4階への階段を、自分の足でしっかりと昇ったのだ。私の思いは...「逝く前に、もっと手をかけさせてほしかった」。

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戸建ての家からマンションへの引っ越し。生まれて初めてのマンション生活。慣れない環境で、モンタが興奮するのが心配の種だった。そこで、米国製の犬の鎮静剤を買った。これの効き目はなかった。モンタの気力は、鎮静剤の効果を超えていたのだ。

人なつこさに隠れた芯の強さ

写真23・他の犬の飼い主にも遠慮なく甘える、11才
friendship

夜など、床に寝ているモンタを間違って踏むと、警告のうなり声を上げた。普通の犬ならば、「キャン」と悲鳴を上げる。モンタは何事につけても、悲鳴を上げることはなかった。
強くしかっても、決して「参った」という表情を見せなかった。雷も怖いものではなく、吠えたてる相手だった。

からだを傷つけることを意味する爪切りは、受け入れなかった。散歩ですり減らすしか、選択の余地がなかった。自分のからだは、自分で守る意志の強かったモンタ。最後の1年間を通して続いたがん治療は、心理的に、相当な苦痛になったはずだ。命を脅かされる恐怖。

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狼をペットとして飼っている人が、ネットに書いていた。「狼は、ストレスさえかけなければ、犬よりもおとなしく従順でやさしい。かつ忍耐強い。留守のときに、安心して幼児の世話を任せられる」。
狼が人間の子供を育てたことがあっても、犬が人間の子供を育てたという話は、聞いたことがない。これは、狼の集団維持本能の発現による。その本能は強烈で、異種の人間に向かうと、人間の子供の面倒を見ることになる。

徹底的に改良されて、狼から受け継いだ犬の本能を失ってしまった、純血種。モンタは雑種だ。 エッセイ11「ペットが命の重みを教えてくれる」 で書いたように、モンタにディンゴの血が入っていたならば、犬本来の本能を強く持っていたと、考えられる。個としての強さは自己主張につながる。受身になることが必要な訓練を、受けつけない態度につながったのだろう。

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動画・ビーチで甘えるモンタ、10才

オーストラリア時代のモンタの一番の社交場は、ドッグビーチだった。それ以外の場所には、そもそも人や犬は余りいなかった。ゴルフ場一周の道でも、近くの公園でも、人影や犬影はまばら。たまにすれ違っても、向こうはクールな個人主義。日本でよく使われている、長いリードや伸びるリードは、犬が好き勝手に動くようになるので、禁止されているお国柄だ。

散歩道が水田や林沿いだったT市。ここでも人影や犬影はまばらだった。時々、養鶏場で飼われている、放し飼いの犬軍団に出会った。この軍団は、モンタを敵視して吠えたので、近づかないようにした。社交本能を閉ざされて、ストレスを感じたモンタ。やぶから飛び出す鳥を追いかけることで、憂さ晴らしをした。

写真24・社交天国、9~11才
friendship1 friendship2 friendship3
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最後のC市は、モンタにとっては天国だった。引っ越し前の心配は、単なる杞憂に終わった。

近くの海まで達する大きな公園は、犬のたまり場。散歩をしている人は、犬好きが多い。毎日、見慣れた犬仲間や人仲間に会えるばかりか、新しい仲間にもどんどん会えた。
モンタの社交癖はヒートアップしてしまった。誰にでも、じゃれまくり甘えまくった。公園で有名になった。大きな声でおしゃべりをするので、周辺のマンションに住む奥さんたちにまで、モンタの存在が知れ渡った。

モンタは猛烈な甘えん坊だったが、芯は強かった。毎日散歩をする公園に、モンタを嫌って、かみそうな勢いで攻撃してくる犬がいた。顔に触れるほどの近さで、牙をむき出しにするのだ。ところが、モンタはどこ吹く風。全く気にせず、尾を振って近づくこともあった。飼い主の私のほうが、かまれるのではないかと、心配した。

いつも芯の強さを見せていたモンタ。ただし、2回だけ、「何とか助けて」という眼差しで、私たちを見たことがある。
最初は、まだオーストラリアにいたとき。水様の激しい下痢で衰弱し、歩くのも困難になった。べったりと私に寄りそったモンタが、私を見上げたときの眼差しが、それだった。2回目は息を引き取る直前。横になったモンタの視線が、足元の妻に向かっていた。「何とか助けて」と、妻に訴えかける眼差しをしたまま、モンタは永眠した。
死を感じたときの最後のより所が、私たちだったのだ。私たちのきずなはそこまで強かった。

きちんとしていたトイレの始末

マンションで飼っている室内犬の場合、トイレで苦労することが多い。
用足しを、外でしかしないように習慣づければ、大変だ。雨が降ろうと雪がふろうと、1日に少なくとも2回は、外へ連れ出さなければならない。飼い主が体調を崩しても、犬の排泄を止めるわけにはいかない。飼い主には負担になる。
おしっこくらいは、室内でできるようにしても、自分のトイレ以外のところで、用を足してしまう犬が多い。当然、室内はおしっこ臭くなる。

モンタはこの点では、とても始末のいい犬だった。

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オーストラリアの家の庭は、広々として大きかった。砂地の庭だ。庭に面したガラス戸の下部に、犬が自由に出入りできる長方形の穴があった。この穴に、ちょうつがいで上部が止められた、プラスチックの板がぶら下がっている。
モンタを貰い受けた直後は、モンタはタイル張りの玄関で用を足すことが多かった。その度に出入り口の穴から庭へ押し出し、「おしっこ」、「うんち」と言い聞かせた。2ヶ月令で貰い受けてから、たった4~5日で、トイレの訓練は済んでしまった。
その後は、下痢で庭まで走れないときにだけ、家の中でもらしてしまうことがあった。それ以外は、トイレのことで、私たちが苦労することはなかった。

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日本では、家にもマンションにも犬用の出入り口がない。マンションでは、トイレ用バルコニーに、プラスチックの枠に入れた吸収シートを置いた。家でもマンションでも、暖かい時期には、すぐに出られるように、戸を開けておいた。寒い季節には、モンタの気配を察知して、庭やバルコニーへ出すために、戸を開けなければならなかった。
今考えると、日常的にこんなことをやるのは大変だ。しかし、生活に最も必要な排泄を助けることに、苦痛は感じなかった。頼り頼られる行為が、間違いなく更にきずなを強める。またコミュニケーションの増大も助ける。

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マンションに引っ越したばかりのときに、トイレで問題を引き起こした。もっとも、このような問題が起こることを予想していたので、準備をしていた。

モンタにとっては、バルコニーを含めて、マンション全体が居住用の部屋になる。部屋の中で用を足す習慣のなかったモンタは、マンションで生理的な要求を満たせなくなる。用足しのために、いつも外へ出なければならないのだ。これではモンタだけではなく、私たちのストレスも大きくなる。

そこで、前に住んでいた家の庭から、モンタの尿が付着した、芝と土を持ってきた。芝と土を、モンタ用バルコニーのシートに敷いた。トイレの場所をはっきりさようとしたのだ。
これは失敗だった。時間を見計らってバルコニーへ連れ出しても、そこで用を足すことはなかった。
庭らしく、「何か植物があればいいかもしれない」と、考えた。ホームセンターで最初に買った背の低い植物は、無視されてしまった。次に背の高い植物を買って、バルコニーに植えた。これが成功した。モンタは片足を上げると、植物めがけておしっこをしたのだ。やはり、犬には電柱が必要なのだ。

それからは、以前のように始末のいい犬になった。晴れていれば外へ出て用を足せる。雨が降っていれば、散歩をしないで、家で用を足せる。高齢になって、人と同じようにトイレが近くなったので、家と外、どちらでも用が足せることは大事だった。

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モンタのトイレに使っていたバルコニーは、私たちのベッドルームに向き合っている。まるで、私たちと同じ部屋で寝る、モンタのために作られたようなものだった。

私たちは、日中は、居間か自分たちの部屋にいることが多い。モンタは、トイレに行きたい気持ちを私たちに伝えなければ、トイレのあるバルコニーへ出る、ガラス戸を開けてもらえない。そこで、象徴的な行動で、自分の意志を伝えることを、自ら学んだ。
私たちがいる居間で、表のバルコニーへ出るガラス戸の前に立ち、戸を足でたたいた。そのバルコニーは、トイレとして使っていなかった。これは、「トイレのある裏のバルコニーへ出る戸を開けてほしい」という、モンタの象徴的な意思表示だった。このような象徴的行動を取れるくらいに、犬の知能は高い。

人間家族をコントロールする術

モンタは、人間家族を、自分の都合のいいように利用する術を、よく心得ていた。 食事係は私。朝食は夏には6時、冬には7時。この時刻に、目覚まし時計のように正確に、私を起こした。

写真25・ここが冬の間の定位置、11才
bed

起こし方...冬の間は、私たちが寝るベッドの、足元のほうに寝ていた。モンタの顔の前にある私の足を、まずなめた。余りのくすぐったさに、これで目覚めてしまった。それでも起きないでいると、ベッドを降り、私の顔を鼻で突いたりなめたりした。抵抗を更に続ければ、大変だ。大型犬が、「ワンワン」と大声で吠えるのだ。

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夕食は5時と決めていた。モンタにとって、うれしい夕食は早ければ早いほどいい。そこで、コンピューターの前に坐っている私の腕を、4時半に、チョンチョンと鼻でつついて催促した。モンタの要求通りにしていれば、食事の時刻が次第に早まることは、間違いなかった。「もう少し待っててね」とモンタに言って、5時まで待たせる抵抗を試みた。
私が、モンタよりも妻の言い分を聞くことを、モンタはよく知っていた。何事につけても、妻のほうがモンタには甘い。モンタは、夕食のアクションを起こさない私から離れた。居間の妻のところへ行き、「ワンワン」と吠えたてた。妻はすぐに耐えられなくなった。「モンタに食事をあげてよ」と、私に叫んだ。こんな経過をたどって、モンタは5時前に、食事にありつくことができた。

写真26・食べ物が落ちればラッキー、9才
food

時刻の判定はとても正確だった。単に体内時計だけで行動していたとは、考えられない。各部屋にある時計の文字盤から、時刻を読み取っていたように思われる。
犬が時計を読む、という話は聞いたことがない。しかし、長針と短針がどの位置に来たときに、食事を貰えるのかということくらいは、判断できそうだ。

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食べ物の要求に、食事用のさらを使うことは、小さい頃から高齢化するまで、決して忘れなかった。食事の前には、さらくわえスタイルで待った。昼食時に牛革のガムを与えた。このときも、さらをくわえたままで待った。乾燥した固いガムにさらは必要ない。けれどもこのスタイルを変えなかった。

写真27・食事を要求するポーズ、7才
waiting

コーヒーを飲むときに、モンタに牛乳をおすそ分けしていた。うっかり忘れると、さらを口にくわえ目を輝かせながら、「ワン」と吠えた。この要求は家族全員に向かった。

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玄関にキーをいくつか下げている。メインキーと車のキーを束ねたもの。メインキーとごみ投入口のキーを束ねたもの。 モンタにリードを付けて、車のキーが入った束を取ると、即座に車での外出になることを理解した。全く迷わずに、駐車場へ足を向けた。そうでなければ普通の散歩。裏の出口へまっすぐに向かった。
モンタの注意力は、何事につけても相当なものだった。

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私が理解できないモンタの行動があった。息子が外から戻ったときに、モンタは息子を誘導し、トイレへ出るガラス戸を開けさせた。バルコニーでおしっこをし、息子に掃除をさせた。モンタの要求にさからえない息子は、カバンを玄関に放り出したまま、モンタの要求に応じた。
モンタが、トイレのために息子を使うことが、夜中にもあった。真夜中にトイレへ行くときだ。寝ている私よりも、息子の部屋へ行って、まだ起きている息子に面倒をみさせた。息子はいそいそと、モンタの後に付いていった。これなどは、人間が考えても合理的な行動だ。

写真28・好みの位置、9才
comfortable position

理解できない行動の中には、こんなことがあった。ソファーの陣取り合戦だ。
若く元気なときには、ソファーに坐っている私や妻、特に何事にも甘い妻を鼻で押しのけてしまった。妻が坐っていたところへ跳び乗った。正規の犬訓練法では、こんなことを認めてはいけないと、なっている。犬は、いつも床に寝ていなければならないのだ。犬の視線は、飼い主よりも下になければならない。

高齢になってからは、少し気が弱くなった。モンタの要求を拒否すると、不満の表情を見せながらも、ソファーの空いているところへ跳び乗った。そうであっても、誰かがソファーから立つと、待っていましたとばかりに、立ったあとへ移動して坐った。

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正規の犬訓練法では、犬に、やたらに触ってはいけないことになっている。特に頭をなでてはいけない。これもモンタでは例外だった。

モンタは、ソファーで横になるときには、最も楽なポジションを取った。頭をひじ掛けに乗せるのだ(写真36)。3人用ソファーならば、人とモンタの間にスペースができた。
大型犬のモンタは、2人用のソファーでからだを伸ばせば、全部を占拠してしまう。けれども家族がいれば身を縮めて、いつも半分を家族のために空けていた。家族が2人用のソファーに坐らないという確信を持ち、とても眠いときにだけ、からだを伸ばした。
2人用ソファーでは、身を縮めても、肌は接触することになった。家族はついでに、触ると気持ちのいいモンタをなでた。

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なでられるのが大好きだったモンタ。公園でも同じだった。誰彼かまわず、自分に興味を持ってくれる人には、からだをすり寄せた。大型犬の頭は、なでるのにちょうどいい位置にあり、すり寄るモンタの頭が、まずなでられた。

食事の次に好きだったドライブ

写真29・ドライブを楽しむ(ただし病院への途中)、12才
driving

食欲旺盛なモンタの最大の楽しみは食事。食事の次に、ドライブが好きだった。この性癖は、日本へ来てからより強くなった。
車窓から見える人、車、バイク、自転車、それに動物の動きに、とても興味を持った。特にバイクは、騒音が気に入らないらしく、車の隣を走ると吠えたてた。あるいはただ流れていく風景にも、興味を持った。

車も人も少ないオーストラリアよりも、日本のほうが刺激が強い。モンタが、日本でドライブをとても好きなったことは、容易に理解できる。

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妻と私を入れたドライブが、特に大好きだった。会話や準備の状況から、その気配を察知すると、はしゃぎ回った。
長距離ドライブでは、毛が座席に付かないように、モンタの毛布を座席に敷いた(写真37)。ドライブの気配がすると、モンタのベッドに敷いてあった、そのクマさん毛布を口にくわえた。部屋を走りながら振り回し、喜びを思いきり表現した。その喜びは、私たちにも伝わった。私たちも幸せになった。

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しばらくドライブをしないでいると、「ドライブをしよう」という要求が増えた。T市では、暇なときにわざわざモンタのために、ドライブをした。

ドライブを終えて駐車場へ戻ると、「ドライブと散歩は別物だからね」と、モンタは主張した。家から少し離れたところにある駐車場。車が入る間もなく、まず「ワンワン」と吠えてうるさくなった。車から降りるやいなや、散歩の要求。前へ立ちはだかり、家へ戻らせないようにしたのだ。好きなことを、続けて2回やってもらう術を、心得ていたことになる。

写真30・さくらの花びらの上で最後の春、12才
last spring

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ドライブの次に好きな散歩。私たちが、モンタを置いて外出すると分かれば、玄関と平行に、廊下に横たわった。顔はそむけたまま、目だけを私たちに向け、ふくれっ面をした。そこで、かける言葉はいつも、「すぐ帰ってくるよ」。
帰宅してドアを開ける間もなく、モンタはすり寄ってきた。

病院は大嫌いだった。それでも、病院へ行くことが分かっていても、ドライブはうれしかった。車に乗るときはうれしくても、病院が近づくと不安になるのが、常だった。2009年は、病院へ行くドライブだけでも、30回近くになった。

遊びに行く長距離ドライブは、がん手術後の2009年2月にアレンジした。房総半島の先端まで行き、たくさんの花を見てきた。
遊びのドライブとしては、次が最後になった。同時に全てのドライブの最後になった。
2010年1月2日、若くて元気ならば歩いて行ける距離にある、海浜公園へ車で出かけた(第1部、写真1B)。その5日後に、モンタは永眠した(写真37)。死の直前に、無意識のうちに、モンタが大好きなドライブをアレンジしたことになる。

脂肪腫ができやすい体質

モンタの最初の手術は去勢だった。オーストラリアで、近所のペットクリニックにやってもらった。乱暴な手術だった。麻酔に値段の安いエーテルを使ったのだ。それも、臭いからすると、とても大量に使ったと思われる。
エーテルは有効量と致死量が近い。死亡の危険が大きいのだ。今では人には使わない。日本のペットクリニックでは、動物にも使わない。

手術後に、ふらつきながらも、家に戻りたくて、必死になって車に乗った。家に着くと、横になったまま失禁してしまった。エーテルは、鼻を突く激しい臭いがする。その臭いは、2日間、モンタのからだから取れなかった。

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モンタは、オーストラリアでアレルギーにかかった。夏の初めに、枯れ草の断片が内陸部から飛んできて、アレルゲンになる。枯草熱だ。両足の間の毛のない箇所が反応し、皮膚がどす黒くなった。かゆみが激しく、口で皮膚をかんだ。5才でオーストラリアを去るまで、免疫抑制剤を使い続けた。
日本にはこのアレルゲンはなく、アレルギーは完治した。

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オーストラリアを去る前に、胸の皮膚の下に、小さく柔らかい塊があるのが、少し気になった。

写真31・脂肪腫の手術直後、9才
tumor

T市に住んでいたときに、その塊がやや大きくなった。数も3~4個に増えたので、ペットクリニックで診てもらった。良性腫瘍の脂肪腫らしいと、診断された。脂肪細胞が皮膚の下で増えて、脂肪の塊を作るのだ。体質によってできやすく、人にもある良性腫瘍だ。獣医師は、少し様子を見ることを勧めた。
脂肪腫ができても、命に別状はない。けれども、大きくなれば筋肉を圧迫して、運動を不自由にする。帰国して4年目、9才(人64才)のときに、腹部や肩で大きく成長した、脂肪腫4個の摘出手術を、T市のペットクリニックで行った。
肋骨を通り抜けて体内へ達する脂肪腫があり、4時間の大手術になった。

その後も、新しい脂肪腫がからだ中にできた。最後には数えきれないほどになった。からだを触れば、どこにでも確認できた。脂肪腫だけではなく、大きないぼもできるようになった(第1部、写真2)。
右の肩甲骨の下へ入り込んでいる特に大きな腫瘍は、運動を阻害する可能性があった。C市へ引っ越した年に、この脂肪腫を切除してもらった。ついでに、左頬のぐりぐりを診てもらった。歯槽膿漏と判定されたので、奥歯を抜いてもらった。このとき、モンタは10才(人70才)だった。

アポクリン腺がんとの戦い

脂肪腫がたくさんできる体質だったので、アポクリン腺がんに最初は気づかなかった。

散歩ではいつも、モンタの肛門を見ながら歩くことになる。肛門の右側に、小さな出っ張りを見つけたとき、「ここにも脂肪腫か」という感想を持った。2009年1月末、モンタが12才2ヶ月(人87才)のときだった。
その出っ張りは、普通の脂肪腫とは違って、急速に大きくなっているように思われた。これが私の不安をかきたてた。 それで、散歩道の途中にあるが、手術などはできない、小さなペットクリニックへ連れて行くことは、最初から考えなかった。
車で10数分のところにある、4階建ての大きなクリニックへ電話をした。A大学の腫瘍専門獣医師が、毎週月曜日に来るということだった。

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不幸にも私の不安は的中した。

最初の診断時にバイオプシーをし、組織像を確かめてから、最終的な判断をすることになった。次の週に、悪性の上皮性アポクリン腺癌と告げられた。
超音波撮影によると、がん病巣の直径は、1週間で2倍の5~6センチに急成長していた。しかも悪いことに、周囲の腰椎下リンパ節に転移している像が、認められた。

考えている暇はなかった。すぐに外科手術の手配をした。そして抗がん剤の投与を始めた。
アポクリン腺がんの摘出手術は、大手術になった。アポクリン腺を、肛門を傷つけずに取らなければならない。腹部を切開して、転移したリンパ節も、可能ならば取ることにした。それで、肛門付近から肋骨の下部まで、20センチも切ることになった。
リンパ節は動脈に付着していた。無理に取ろうとすれば、動脈を切って即死する。転移リンパ節はそのまま残した。

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アポクリン腺がんの摘出手術後、クリニックには3日間滞在する予定だった。ところが、翌朝電話がかかってきた。クリニックで、モンタはとても落ち込んでいたのだ。そのままでは、「生きる意欲の消失が、最悪の結果を招くかもしれない」と、言われた。「家へすぐに帰したい」と、クリニックが言った。
私たちが迎えに行くと、患部をかまないようにするエリザベスカラー(写真31)を首に付けたまま、モンタはジャンプしてきた。術後の処置法を聞いてから、モンタを予定よりもずっと早く、帰宅させることになった。

クリニックどころか、待遇のいいドッグホテルでも、箱入り息子のモンタには最悪なのだ。

写真32・非難の表情、10才
blaming

5日間の海外旅行のために、成田空港周辺の、一番環境のいいドッグホテルを探したことがある。そのホテルを事前に見学した。広々とした芝生の庭と、人が泊まれるほどのログハウスの大きな犬小屋。夫婦でやっている経営者は、とても犬好きに見えた。

私たちのマンションよりも、ずっと快適なドッグホテルに滞在したのだ。旅行後、迎えに行きながら、妻と冗談を言った。「もう家には帰らない」と、モンタが言うに違いない...。
ところが、モンタは私たちに飛びつきながら、極度の不安の表情を見せた。その表情の中に、モンタを置き去りにした、私たちを非難する表情が含まれているのには、驚いた。

それからは、モンタをホテルに預けて旅行をすることが、できなくなってしまった。家にモンタの面倒を見る息子がいるときにだけ、旅行するようになった。

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手術の際に取り残した、がん細胞が転移した腰椎下リンパ節。2週間で、2センチから5センチに急速に成長した。

手術後に、体力を回復するための、休みを取っている暇はなかった。腫瘍専門医が所属している、A大学動物病院で、放射線治療を開始した。治療台の上で勝手に動いてしまう犬。放射線治療の際にも、全身麻酔をかけなければならない。体力が落ちていれば、麻酔は死の原因になる。
片道2時間をかけて病院に通い、週1回で合計4回の照射を行なった。前後の検査も含めれば、7回通うことになった。終わったのは4月だった。照射箇所の皮膚は焼けて黒くなった。しかし副作用の下痢はなく、食欲は前と同じように旺盛。あきれるくらいに元気一杯だった。
がん、どこに?放射線治療、どこに?...という感じだった。

* * * * * * * *

放射線治療のあとから、3週間に1回、抗がん剤のカテーテル投与を行った。最後になった12月末の投与まで、合計11回やったことになる。放射線治療前の投与も含めれば、10数回になる。ここでも、人で考えられるような副作用は、モンタには全く見られなかった。そのこともあって、途中で抗がん剤の量を50パーセント増やした。

ここまでの経過は、それなりに良好と言えた。がん患部の成長は止まり、アポクリン腺がんの血中指標である、カルシューム値は正常の範囲に戻った。

* * * * * * * *

大型犬は、照射する放射線量も、投与する抗がん剤の量も、小型犬よりははるかに多くなる。勿論、手術の際の切開部分も大きくなる。
これら全てが、治療費の増額につながる。ペットの医療保険を掛けていなかった。人よりもはるかに高い治療費を、負担することになった。

燃え尽きた命

写真33・4階への階段を昇る、12才
difficulty

モンタは暑さには弱かった。夏の間は、公園に行っても、歩くよりも木陰で休むことを好んだ。マンションに帰って階段を昇るときにも、途中の階で横になった。4階まで上がるのに時間がかかった。暑い時期には、階段を上がるときに呼吸が上がった。

冬は活動的になり、どこまで歩いても疲れなかった。2009年も、涼しくなってきた10~11月には、今までのパターンを繰り返した。川沿いの公園を歩けば1.5キロほどあるビーチまで、休みなしに歩くことをいとわなかった。

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今になって思い返せば、11~12月から心不全が悪化したと思われる。

雨のときには、散歩に行かなかった。けれども、「雨だよ。バシャバシャだよ」と繰り返し言っても、モンタはなかなか納得しなかった。あきらめるまで、何度でも吠え続けた。それほど散歩が好きだったモンタ。
うれしい散歩へ出かけるときには、早足で階段を駆け下りていた。ところが、11~12月頃から変化が見られた。階段の踊り場で下を見ながら、降りることを躊躇するようになったのだ。各階で歩みを止めるので、頭をなでて元気づけなければならなかった。
歩くよりも、公園で横になる回数が次第に増えてきた。平らなところでつまずいて、後足を怪我することもあった。

モンタは、以前から猛烈に人なつこかった。今にして思えば、最後の1~2ヶ月間は、その人なつこさがレベルアップしていた。とても甘えん坊になった。それまでに、モンタに好意を見せた人たちだけではない。初めて会った人にでも、ぴったりと身を寄せた。少し離れていても、相手が目や言葉で好意を伝えれば、モンタは喜んで歩み寄った。
肉体的な衰えが、心理も変えたのだろう。誰彼構わず、やさしくしてもらうことを望むようになったのだ。

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写真34・小さいガムをかむのも大変(死の直前)、13才
last biting

昼食時に、おやつとして、牛革でできた骨状の硬いガムをやっていた。元気なときには、中型犬用のガムを、アッと言う間に平らげた。12月頃から、食べるのにとても時間がかかるようになった。「老化してかむ力が弱ったのだろう」と、判断した。それで小型犬用ガムと、もっと柔らかいガムを混ぜて与えることにした。
若いときには、牛の大たい骨をかみ砕いたモンタ(第1章、写真12)。弱くなるモンタを見るのは寂しかった。

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家族が誰か帰宅したときには、モンタはいつも玄関で出迎えた。ドアーが開けば、どの部屋で寝ていても、すぐに玄関へ飛び出した。
その反応が次第に鈍くなった。
玄関を入って左側に、陽が当たらないために、最も薄暗い息子のベッドルームがある。昼間、家に誰もいないときには、そこで寝るようになった。誰かが帰宅すれば、物音が一番よく聞こえる部屋だ。
特に最後の半月ほどは、私たちが帰っても、気づかずに眠り続けることが、多くなった。今までにはなかったことだ。「少し呆けたのかな」と思って、私はそのまま眠らせておいた。

写真35・家族がそろった正月、6才
new year

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高校生のときから外に出ていた長男は、クリスマスにはいつも戻っていた。ところが、07年、08年は正月になってから戻った。09年もクリスマスには戻らなかった。

モンタは09年に、その前の2年間とは異なる行動を取った。12月23、24日の晩に、来るはずのない長男を玄関で待ち続けたのだ。
居間に家族がいるときには、いつも居間にいるモンタが、誰もいない玄関で待ち続ける。食欲旺盛なモンタを、食べ物で釣ることができた。モンタがかわいそうなので、私はモンタが特に好むヨーグルトの容器を見せながら、モンタを居間へ呼んだ。しかし、モンタはそれに目を向けただけだった。伏せの姿勢で、そのまま長男を待ち続けた。

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以前とは違う、最後の1~2ヶ月間の変化はこれくらいだった(死の5日前の奇妙な行動については、第1部で詳述)。

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死の前日に、少し早足の散歩をした。帰宅すると2~3時間床に横になり、呼吸が苦しそうだった。6日後に定期検診と抗がん剤の投与があったので、「先生にこのことを話そう」と、妻と話し合った。

1月7日、死の当日はよく晴れ上がっていた。風はなかった。
公園は光で一杯だった。モンタは、芝生の上をころころと転げ回った。腹這いになってあたりを眺めた。いつものように他の犬に挨拶をし、他の人になでられた。散歩から帰った直後には、何も異常がなかった。

写真36・ソファーで心地よいひと眠り、13才
sleeping

いつもならば、夕食後に、私たちが坐っているソファーに跳び乗った。私たちの隣で横になり、睡眠前のうたた寝を楽しんだ。その日は、寝る前の3~4時間、この日課ができず、床に寝転んで荒い呼吸をしていた。私と妻は心配した。ところが、いつもの睡眠時刻の20分前に、私の左横に跳び乗ったのだ。私も妻も、体調が戻ったと思って安心した。
しかしここで、最後まで残っていたエネルギーを、使いきったのだ。

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10分ほど経ってから、ソファーから降りて、バルコニーのトイレへ行く気配を見せた。就寝前に、いつもおしっこをした。それは毎日の習慣になっていた。バルコニーへ出るガラス戸を開けるために、私がモンタの後について行った。後から見ると、足がふらついているのがよく分かった。寝ぼけると同じようになる。「少し寝ぼけているのかな」と思った。おしっこはトイレできちんと済ませた。
その後は、寒い冬には、普通ならば私たちのベッドへ跳び乗った。けれども、ベッドへは乗らず、そのまま廊下に横になった。体力が落ちているのが分かった。私たちのベッドに、モンタが寝るすき間を作ると同時に、自分のベッドでもいいように、私たちのベッドの横にモンタのベッドを置いた。
モンタの名を何回か呼んだが、モンタは廊下に横になったままだった。妻はモンタの気を引くために、純白の大きなシープスキンを、モンタのベッドに敷いた。それまで、この一番いいスキンを、モンタのベッドに敷くことはなかった。

私たちの意図を察したモンタは、一度自分のベッドに横になった。ところが、次に、今まで就寝前には一度もやったことのない行動を、取った。キッチンにある自分のさらに戻り、水を飲んだのだ(死に水を取るのは、動物の本能なのだろうか?)。飲むというよりも、水面に舌で触れ、舌をぬらすという感じだった。飲む量が余りにも少なかったので、私は小さな器に水を入れ、モンタの後に従った。

写真37・大好きなクマさん毛布に包まれて永眠、13才
eternal sleep

モンタは自分のベッドに戻った。最も快適な、頭を横の出っ張りに乗せるポジションを取るために、からだを一回転させた(第1部、写真3)。そこで横になると、足元にいた妻を直視した。私はモンタの頭の後にいて、水を飲ませようとしていた。
ここで妻を見た目が、「何とかして」と訴える目だっと、妻があとで言った。

「モンタが死ぬ!」と、妻が悲鳴を上げた。
声を張り上げて、別の部屋にいた次男を呼んだ。モンタの呼吸が荒くなった。3人が見守る中で、モンタが純白のスキンの上に大便をもらした。それでもう助からないことを、私は直感的に悟った。モンタの呼吸が止まった。胸に手を当てると、心臓の鼓動も止まったことが分かった。

妻はモンタのからだをなでながら、「死なないで、死なないで」と叫んだ。

私は、開いていたモンタの両目を指先で閉じた。モンタの額に軽く触れながら、「ねんね、ねんね」と、モンタに繰り返し呼びかけた。眠いのに、周囲が気になって眠ることができないときに、私がこう言うと、モンタはいつも眠りに落ちたのだ。モンタの永眠する姿が、涙で見えなくなった。

直接の死因は心不全

死後、担当の獣医師に死亡前後の状況を話した。
「がんは安定していたので、直接の死因とは考えられません」と、獣医師は自分の判断を言った。確かに、転移リンパ節の大きさは安定していた。血中カルシューム値は正常の範囲内。アポクリン腺がんには肺転移が多いが、肺がんで死亡する場合は、死に至るまでに衰弱するなど、ある程度時間がかかる。

直接の死因は、がんではなく心不全と、獣医師は結論づけた。
死の直前まで元気だったのが、前日と当日に、苦しそうな呼吸をすることがあった。それに死後口から血が少し出た。このことから、僧帽弁閉鎖不全などの心不全が、最も可能性が高いというのだ。血液循環が滞って、肺を充血させる。

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モンタは感受性の高い、エネルギーに満ちた犬だった。よく吠え、いつも走り回り、散歩でリードを引っ張れば、頑張る心臓の劣化は速くなる。死の直接の原因になったと思われる心不全に、この性格は影響をしていたに違いない。
高齢化で心臓が弱くなることに加え、がん治療で、1年間に30回近くも病院通い。放射線や抗がん剤は、健康なからだの組織を痛めつける。病院に行けば、モンタはいつもとても興奮した。この極度のストレスの繰り返しが、心不全の引き金の一つになったはずだ。

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心不全の一番はっきりとした症状は、咳だという。せめてそんな症状が出ていれば、心不全対策を試みた。ところが咳の症状は、モンタには全く出なかった。最後までエネルギーをフルに使って、命の炎が燃え尽きてしまったのだ。
担当獣医師も、モンタの死が余りにも突然だったことに、驚いていた。死の3週間前に診たときにも、年令からは考えられないほど若く、活動的という印象を受けていた。それで、心不全を疑うことがなかったのだ。

このエッセイを書きながら、もう一度モンタの全ての診断書を見直した。たった一度だけ、心電図を取ったことがある。ペットクリニックで、高齢のモンタが麻酔に絶えられるかどうかを判断するために、がん摘出手術の前に行なったのだ。
結論は頻脈となっている。2009年2月の時点では、特に深刻な状況とは判断されていなかったのだ。それが、モンタの人生で最もストレスのかかった1年の間に、心不全にまで悪化してしまった。

大型犬の1年は人の7年余に相当する。最後の1年間を頑張って、13才3ヶ月(人95才)で永眠したモンタ。基本的な生命力は強かった。

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写真38・最後に歩いた公園
park in memory

モンタは、ほとんど苦しまずに永眠した。その死が余りにも突然だったので、心の準備ができていなかった私たち家族。私たちは混乱し、ペットロス症候群に陥ったが、周囲の皆から愛されて命をまっとうしたモンタは、幸せだった。

モンタが旅立ったことを話すと、モンタを知っているほとんどの人が、目に涙を浮かべてくれる。マンションの掃除のおばさんは、通路で本泣きをした。掃除に来る度に、モンタに出会うのが楽しみだったのだ。
「とってもいい子だったのに、とってもいい子だったのに」と言う言葉のあとは、ただ涙。
公園では、犬仲間の奥さんだけではなく、遠くから、「モンタ、モンタ」といつも声をかけながら近づいて来たおじさんも、泣いてしまった。

誰にでも精一杯に愛嬌を振りまいて、愛されたモンタ。関係のない他人にここまで愛されることは、人間には難しい。


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