10月に、妻といっしょにツアーでニューカレドニアへ行ってきた。この時期は、南半球にあるニューカレドニアは春だ。
ニューカレドニアの緯度は、北半球でいえばフィリピンのルソン島に近い。従って気候はフィリピンに似ている。日本との時差が2時間。ニューカレドニアのほうが早くなっている。
ニューカレドニアは、オーストラリアのクイーンズランド州の海岸から、1500キロほど東に離れている。南太平洋では一番大きな島だ。島周囲のサンゴ礁が世界遺産になっている。本島は幅50キロ、長さ400キロ。面積は四国に近い。山が多く主要な道路は海岸沿いに一本しかない。観光用のキャッチフレーズは、「天国に一番近い島」。
人口は24万人。大統領が住む行政所在地(首都)はヌーメアだ。フランスの植民地で公用語はフランス語。通貨の単位はフラン(1フラン=約0.9円)。
旅行の計画を立てるときに、日本とニューカレドニアの間に直行便があることに、少し驚いた。ヌーメア行きのニューカレドニアのエアカラン航空の飛行機に、フランス人乗客がとても多かったので、さらに驚いた。
帰りに、大部分の乗客が成田で降りずに、エアフランスに乗り換えたので、このフランス人乗客の謎が解けた。フランス人は、ニューカレドニアとフランスの間を旅行するときに、成田で飛行機を乗り換えているのだ。成田・ヌーメア間の飛行時間は9時間弱、成田からパリまでは13時間前後かかる。1日近くも飛行機に乗り続けるフランス人の皆さん、お疲れ様。
最初の日の機内一泊を含めて、3泊4日の短い旅。最後の日は、朝の8時半に空港へ行くバスが迎えに来るので、現地で観光ができるのは事実上1日半。普通に考えれば強行軍ということになる。けれども、私たち夫婦はあてのない旅が大好きなのだ(人生そのものがあてのない旅...かもしれない)。1日半なら1日半の範囲内で、現地に着いてからスケジュールを適当に立てる。これならば強行軍になることはない。
ツアーは、飛行機+ホテルだけがアレンジされているものを選ぶ。ショッピングまでも含めた、全旅程が管理されているツアーを避ける。買い物のためと称して、店から店へ客を引っ張りまわすツアーは、ふたりとも閉口だ。時間がむだであると同時に、疲れてしまう。
旅行の前に、完璧を期して準備をするようなこともやらない。調べすぎると、イリュージョンが現実よりも大きくなってしまう。現地に行ったときに、「なんだこんなものか」、と失望してしまう。予備知識なしで出かけ、「こんなにすばらしいところがある!」、と驚くことを私たちは好む。...ということで、スーツケースに衣類などを詰めたのは、出発日の午前中だった。家を出て成田へ向かったのは午後3時。
私たちの旅行で一番問題になるのは、甘えん坊のラッキーだ。私と妻がいる我が家が大好きなラッキー。私たちから離れてドッグホテルに泊まるのは、大変なストレスになる。そこで、前に飼っていたモンタのときから、成田周辺で環境が一番いいと思われるドッグホテルに、あずけている。
夫婦が経営しているそのドッグホテル。施設長は犬好きの奥さんだ。そこには、よく手入れされた芝生が広がる大きな庭がある。犬小屋になっているキャビンから、いつでも庭に出ることができる。上の写真の芝生の庭の奥にある、ログハウスのキャビンが犬小屋だ。人間である平均的な日本人の住居よりも、この犬の宿は快適そうに見える。仕方がない。これが現実だ。
念のために、このドッグホテル 「ログワールド」 へのリンクを張っておく。犬を環境のいいホテルに泊めて旅行に出たい方は、ぜひお試しあれ。
2日目の朝7時(日本時間5時)にヌーメア空港に到着。街の北にある空港から市街地まで、40分かかる。バスの中で、ツアー会社のスタッフからいろいろな説明があった。事前準備をなるべくしない主義の私たちには、ほとんどが初めて知る情報だった。
バスの窓から外を見ていて、自然や牧場の様子が、オーストラリア中部以北の海岸沿いにとてもよく似ていることに、気づいた。違いは、山がえんえんと続いていることと、雨量が多いように見えるということくらいだ。緑はオーストラリアよりもやや豊か。
ヌーメアの市街地近くまで自然が広がっている風景を見て、なぜ空港を60キロも離れたところに作ったのか、疑問に思った。街へ入る前に高速料金を払うゲートがある。
バスは街の中心にあるココティエ広場を通り抜けたが、興味のあるところにしか行かない主義の私たちが、ここを訪れることはなかった。何の変哲もない港町、という印象しか持たなかったからだ。ガイドブックには小パリと書いてあるが、オーストラリアの港町と大きな違いがないように思えた。
私たちのラマダプラザホテルは、ヌーメアの南にあるアンスバタビーチの近くにあった。この周辺に大きな観光ホテルが集中している。ラマダホテルには2泊しか滞在しなかったが、今までの世界遍歴で経験したことのない、貴重な体験をすることになった。
まず部屋の問題。リセプションの女性が、ルームナンバーを書いた紙をくれた。そこには1056(B)と書いてあった。エレベーターの近くにいたホテルスタッフに、何階にある部屋なのかをたずねた。その紙を見たスタッフが、「その部屋は6階にあります」といった。
ガタガタと音を立てるエレベーターから6階で降りて、部屋の探索。どこにも1056という番号の部屋はなかった。
1階のリセプションに戻って、私たちの探索結果を話した。受付の女性は「すみません」ともいわずに、まるで当たり前のことのように、「1056ではなく1055です」といった。
1055は6階にはなかったように記憶していたが、再び6階へ戻って探索。やはりなかった。再びリセプションへ戻ると、「1055は5階の部屋です」といった。
ガタガタエレベーターで5階に上がってよく見ると、1054、1055と二つの番号が書かれたドアがあった。そのドアをカードキーで開けた。ドアの向こうには部屋がなく、再び廊下があった。廊下の左側に1054、右側に1055と書かれたドアがあった。奇妙な部屋の配置に少し驚いたが、驚くのはまだ早かった。
1055のドアを開けようとしても、ドアはがんとしてカードキーを受けつけないのだ。私と妻が交代で挑戦したが、全ての試みがむだになった。そこでまたリセプションへ降りた。女性は「すみません」ともいわずに、パソコンでキーをセットしなおした。
再び5階。まだ開かない。それで、リセプションでキーのリセット。これを3回も繰り返した。特別に断っておきたい。5階と1階を行き来する私たちに、受付の女性が「すみません」ということは、一度もなかったのだ。私たちの堪忍袋の緒がほとんど切れてしまった。4回目のリセット(私たち夫婦は、平均的な日本人よりも忍耐強いのです)で、やっと1055のドアを開けることができた。
ところがまたもや、またもや仰天。1055のドアの奥にまたもや、またもや廊下。正面と右側に二つのドアがあった。右側のドアには1055(A)、正面のドアには1055(B)と書かれていた。Bのドアをなんとか開けることができた。
私たちはカードキーを2枚受け取ったが、そのうちの1枚だけが、1054+1055、1055、1055(B)の3枚のドアに有効だった。
やれやれ、やっと部屋へ入ることができた。窓の外を見ると、緑がいっぱいの競馬場が見えた。浴室はとても広かった。快適に過ごせそうな部屋だ。ここへ来るまでに、ドアを3枚も開けなければならない、という超厳格セキュリティで守られた部屋。これくらいの快適さは当然といえた。けれども、私たちは敵から命をねらわれるほどのVIPではない。どこにでもいる庶民にすぎない。ドアは1枚あれば十分だ。
案に相違して、この部屋のセキュリティは、超厳格セキュリティどころか、無セキュリティに近かったのだ。
2泊目の夜の真夜中の0時過ぎのことだった。外で突然に騒動が持ち上がった。靴で床をける音が派手に響いた。激情している女性の声が、ドアの外側から聞こえてきた。その音と声で私たちは目を覚ました。女性は、日本語で話していた。
その直後に、私たちの部屋のドアが突然に開いたのだ。外から入るまばゆい光。想像もしていなかった事態の発生に、妻が「ギャー」と悲鳴を上げた。
今までにあちらこちらを旅行したが、真夜中に部屋のドアを警告もなしに開けられたことは、ただの一度もなかった。私は、無言のまま上体を起こして身構えた。誰かが攻撃してくる可能性を、瞬間的に考えた。素手でナイフや銃に立ち向かう覚悟さえも、決めたのだ。
ところが、「ソリー」という女性の声とともにドアが閉められた。私はめがねをかけていなかったので、女性の正体を見極められなかったが、赤い服を着たホテルスタッフであることを、妻が認めた。
外の騒動はその後も続いた。ヒステリックになっている女性と、ツアー会社のスタッフらしい女性とのやり取りから、何か手違いがあったことを理解できた。予定の飛行機に乗れなかったのか、このホテルに予約が入っていなかったのか、どちらかまたは両方のように思われた。
「私たちは楽しむためにここに来たのよ。全部キャンセルするわ。もう二度と来ないわ」、という怒鳴り声。
「すみません。キャンセルするにしても、明日の朝6時半にならなければ、仕事を始められません。6時半になってから対応いたします」、という別の女性の声。
この真夜中のドラマに興味を持った私たちは、交代でドアのぞき穴から外の様子を見た。二人の小柄な中年の日本人女性と、ダークスーツを着た若い日本人女性が、隣の部屋の入り口のところで対峙していた。身振り手振りをまじえた口論。
ダークスーツの女性の背後に、ホテルスタッフの男性と女性がいた。ホテルスタッフは、直立不動の姿勢を全く崩さないどころか、みじろぎさえもしなかった。まばたきも忘れているように見えた。心臓の鼓動も止まっていたかもしれない。5人の動と静の対比は、芸術的といえるほどに見事だった。
口論が余りにも長く続くので、部屋の外に出て、「静かにしろ。眠れないじゃないか」、と叫ぶ心の準備を始めた。そのときになって、この戦いにやっと終止符が打たれた。けれども、私たちの眠気は吹っ飛んでしまい、その夜は眠るのが難しかった。
翌朝の6時半ちょうどに、靴音を立てて女性が隣の部屋から出て行ったところを見ると、よほど腹を立てていたのだろう。けれども、下のロビーで何らかの決着をつけたようだ。二人は、そのまま滞在することにしたと思われる。私たちがホテルを出るときに、バッグを背に背負ったそぞろ歩きスタイルの二人が、通りの角で現地のひとに道をたずねているのを見た。
その朝が、私たちのチェックアウトタイムだった。 私は、「真夜中にとてもうるさくて眠れませんでしたよ」、とリセプションの男性にいった。その男性から戻ってきたのは、完全な沈黙だけだった。
時間を戻して、ヌーメアに着いた最初の日の話になる。その日は、自由に行動できる時間が半日しかなかった。そこで、周囲の下町とアンスバタビーチをそぞろ歩きすることにした。 地図をながめて、目の前の海に浮かんでいるカナール島へ行く、タクシーと呼ばれる乗り合いボートが、そのビーチから出発することを知った。発着場は、カーズと呼ばれる、ヤシの葉でふいたとんがり帽子のような屋根を持つ、メラネシア風建物のところにあった。
そぞろ歩きで知ったこと。日本と同じように、車よりも通行人のほうが大事にされている。ビーチの周辺に交通信号はなかったが、横断歩道を渡ろうとするひとを見ると、車が必ず止まった。ここまで歩行者が優先されている国は、日本以外ではニューカレドニアくらいしかない。
主要なレストランが、夜7時になってやっと店を開けることは、予想外だった。夏には猛暑になるおかげで、昼休みが長いことがこのような習慣を作ったのだろう。
物価は高い。現地の人たちが行く最も庶民的なレストランでも、ハンバーガーが800円もする。二人で普通に昼食を取れば、3000~4000円になる。観光客が行くレストランならば、二人で1万数千円になってしまう。スーパーでは、日本よりも安い物は見つけられなかった。
日本並みの値段の物は缶の清涼飲料水。バナナは周辺で栽培されているのに、日本の2倍の値段になっていた。
カナール島は、アンスバタビーチからながめた限りでは、余り見栄えのしない小さな島としか見えなかった。派手には宣伝されていないこの島。私たちは大きな期待を持たずに、時間つぶしのつもりでタクシーに乗った。カナール島までは、10人乗り程度のこのタクシー船で5~6分で行ける。
ところが島に着いて驚いた。海底の白いサンゴ礁が映し出された青い海が、とても美しい。白いビーチに並んだ真っ赤なパラソルが、リゾートらしい雰囲気をかもし出していた。島の中央部に大きなカーズのレストランがあった。その周囲にヤシなどの樹木が木陰を作り、強烈な日差しをさえぎっていた。薄暗い木陰は落ち着きを与えた。木陰は涼しかった。
私たちは、その日は海に入る装いをしていず、靴は普通のスポーツシューズだった。タクシーの乗降時に海に入るのではだしになった。アンスバタビーチは砂なのではだしでもいいが、カナール島のビーチはくだけたサンゴで被われている。ここをはだしで歩くのは難しい。とがったサンゴのかけらがはだしの足裏を突いて、とても痛いのだ。
妻がこの島を気に入ってしまった。次に来るときにはここで1日を過ごし、赤いパラソルの下で寝そべりたい、といった。このパラソルは有料だ。
旅の意外な穴場をいつものように見つけることができて、その日は二人とも大満足だった。
夜はホテルのプールサイドでひと時を過ごした。10月の気温は、昼間は20数度だが、夜には10数度に下がる。真昼の直射日光の下では、この気温よりも暑く感じられた。逆に、夕方に冷たい風が吹き始めると、肌寒く感じられる。プールサイドが寒くなったので、長居をすることもなく部屋へ退散することになった。
ヌーメア滞在2日目に、まる一日の自由時間があった。前日に、17~19時の間しか開いていないツアー会社のオフィスへ行って、オプショナルツアーの申込みをした。2日目は火曜日だったが、1週間のうちでも火曜日は特にツアーの種類が少なく、その中からグリーン島ツアーを選択した。
朝7時半にホテルを出発し、車でグリーン島対岸のポエビーチまで行く。そこからはモーターボートになる。ホテル帰着は夕方の6時。計10時間以上のツアーだ。
迎えに来たマイクロバスに乗ったのは、私たち二人だけだった。運転手兼ガイドは、茶色の肌をした、肥った典型的なメラネシア人に見えた。しかし、 ガイドのテリーの家族の人生は、単なるメラネシア人の家族の人生よりも複雑だった。ツアー客が私たち夫婦だけだったので、陽気で話好きなテリーが、自分のプライバシーの全てを話してくれた。何しろ片道だけで180キロもあるので、よもやま話をするには時間が十分にあったのだ。
見かけとは違って、テリーがフランス人とメラネシア人のハーフであることを、会話の最初で知った。祖父母がフランス人、父がフランス人、母がニューカレドニア人だった。ただし、祖父母の母国であるフランスは大嫌いで、「観光に行くのもいやだ」、とテリーはいった。
一番好きな国はニュージーランド。特に自然が豊かな田舎が好きなのだ。そのうちに移住することを考えている。
ヌーメアのような「大都会」をテリーは嫌っていた。日本人から見ればヌーメアは田舎町だが、大自然の中で育ったテリーには、騒音と排気ガスに満ちた大都会になる。電車がなく、バスは街の中心部しか走っていないので、人々の移動手段は車だけだ。車の数は予想以上に多い。朝晩は道路が渋滞してしまう。
テリーの父は、ポエビーチで民宿とレストランを経営している。客は少なそうだ。閑散としていた。グリーン島へ行くときは、この民宿からモーターボートを持っていく。親子で観光業にたずさわっているのだ。
民宿の庭で、イヌ5匹とネコ2匹がのんびりと歩き回っていた。その他、ニワトリ、ウサギ、インコ、ハトが飼われていた。これらの動物の世話だけでも大変そうだ。子犬は遊び盛り。ネコを親のようにしたっていて、後を追いかけていた。ついでに私にもじゃれついて、私の指をたくさんかんだ。
テリーの母は10年前に54才で亡くなった。料理が好きで、いつも台所に立っていたそうだ。民宿の庭に立っている、小さな記念碑に飾った母の写真から、肌色も顔も体形も、テリーは母にそっくりなことが分かる。母とは対照的に、ヨーロッパ系の父の肌は白くとてもやせている。
テリーの体重は現在110キロ。日本人に比べれば十分以上の肥満だが、以前はもっと肥っていた。超肥満の母がメタボで亡くなったのにショックを受けて、母の死後にテリーは胃のバイパス手術を受けた。それで60キロもやせたのだ。すなわち、テリーの以前の体重は170キロもあった。
テリーはヌーメアに住んでいる妻と別居中だった。一人息子を妻が育てている。ヌーメアにはガールフレンドがいて、仕事の都合に合わせて、父の家とガールフレンドの家を住み分けていた。そのガールフレンドを、テリーは「ロッジ」と呼んでいた。仕事が終わったならば、その日もロッジに泊まるので、帰路でケータイを使い何度も連絡を取っていた。帰りを急いでいたところを見ると、ロッジを訪れるのがとてもうれしいのだ。
私の妻は、「ガールフレンドをロッジ呼ばわりするなんて、失礼だわ」、と怒っていた。
テリーは、4年前から日本のツアー会社と契約をしている。現在日本語のテキストを使って、日本語の勉強をしている。まだ、いくつかの単語と短い文章をいえるくらいの日本語力しかない。そのために、私たちの会話は英語に頼ることになった。ただしテリーの英語は余りよくない。
テリーの息子は、「ハチ公物語」の映画を見てハチが大好きになり、自分の犬にハチという名前をつけた。
テリーの家族の日本との因縁が、祖父の時代に始まった。フランス人の祖父が、戦争中にフランスでドイツ人を相手に商売をしていた。戦後、戦犯ということになり、フランスで服役するのではなく、ニューカレドニアへ流された。
祖父は漁師になった。ニューカレドニア周辺の海では、外国の漁船はニューカレドニアの漁師を乗せなければ、漁ができないことになっている。そこで、祖父は日本の漁船専門の乗組員になったのだ。
ヌーメアからポエビーチまでのバス旅行で、ニューカレドニアの自然と牧場はオーストラリアに似ている、という印象がさらに強まった。
澄んだ大きな声で歌う鳥がどこにでもいた。オーストラリアのワイルドフラワーのような草花は見かけなかったが、木々は色とりどりの花で被われていた。それらの多くは、オーストラリアで見覚えのある花だった。赤いハイビスカス、黄色いアラマンダ、白いフランジバニエ、紫色のジャカランダ、その他名前を知らない花々。テリーの父の民宿の庭にある無数の植木鉢は、花だらけだった。
マンゴ、ヤシ、バナナがいたるところに自生していた。誰も実を取らないので、日本のカキと同じように、熟するとたくさんの実が地面に落ちる。夜になると葉を閉じる、ネムの木と同じ種類の木があった。日本のネムの木と違うのは、枝の張り出し方だ。地面から1~2メートルの高さのところから枝を伸ばし、葉は全体では傘のような形になっていた。
グリーン島へ行くモーターボートの客として、フランス人兄弟が加わった。 弟はケニアに住んでいて、ニューカレドニアに住んでいる兄を訪問中だった。両親はタヒチに住んでいる。世界中に散らばっている家族だ。散らばった最大の理由は、仕事だそうだ。それでも1~2年に1回は互いに訪問をしている。
私は、ニューカレドニアとフランスの関係について、兄に質問をした。「フランスの植民地であることは、やむを得ないという以上に、必要なことです」、という答。24万人しか人口がないニューカレドニアは、フランスからの援助がなければやっていけない、と考えていた。
ポエビーチからグリーン島までは、モーターボ-トで行きが40分、帰りが20分ほどかかる。行きには、海がめが産卵に来るビーチを海側から見るために、遠回りをしたのだ。
この日の海は少し荒れ模様だった。巨大な波頭が迫ると、波の陰の向こうにある海が見えなくなった。砕けて白くなる波頭を乗り越えるモーターボート。そこから波間へ急降下した。スリリングな船旅になった。船酔いをする妻が心配だったが、この荒海でも酔わなかったのは幸運だった。
グリーン島の西側は、オーストラリアとの間に存在するサンゴ海だ。グリーン島の西には、世界遺産になっているサンゴ礁のラグーンがある。ラグーンで砕ける波が、水平線でまばゆい白い線になっていた。その動的な白い線が延々と続く光景は、サンゴ礁ならではの景観だった。
出発前のテリーの話によると、海が荒れているために、その日はシュノーケリングが禁止されている、ということだった。モーターボートにはシュノーケリングの道具が積まれていて、無料で貸してくれる。
グリーン島に着いてから、テリーは、「シュノーケリングをやらないのか?」、と私たちに何度も聞いた。役所の決定などはどうでもいい、ということらしい。役所よりも、客を満足させるほうが大事なのだ。フランス人の弟がシュノーケリングを試みたが、砂が舞い上がって海中の視界が悪くなっていたために、すぐに海から戻ってきた。テリーよりも、役所のほうが正しかったようだ。
グリーン島には、モーターボ-トの発着場になっているところにしか、砂浜はない。そこ以外では、1メートルほどの高さのごつごつと突き出た岩が、歩行困難ながけを作っている。
島の中央を歩けば、数分で横切れるほどの小さな島だが、島内に誰かが歩いたような跡はなかった。島は、丈の低い樹木と草で被われていた。島内探検を試みたフランス人弟は、足をひっかき傷だらけにして、すぐに戻ってきた。
島を歩いて一周するには、海岸沿いしかない。しかし、ちょうど満潮の時間だったので、海岸沿いに海を歩くのは危険だった。
それでも行けるところまで行こうと、妻と波打ち際を歩き出した。
「キャー」という妻の悲鳴。海中を陸へ向かって泳いでいる、派手な色のヘビを見つけたのだ。それは、体長1メートル半ほどの白黒まだらのウミヘビだった。
ヘビ嫌いの妻はさっと逃げてしまった。ヘビはゆっくりと岸に上がり、岩の間に入り込んだ。
妻の悲鳴を聞きつけてやってきたフランス人兄が、「このウミヘビは猛毒を持っていますが、とてもおとなしくて、まだひとをかんだことがありません」、と説明した。
妻は、島探検の戦意を完全に失い、その後はボートの近くの草の上で、出発時刻まで昼寝をすることになってしまった。
昼食は、ビーチの近くの草の上で取った。テリー手作りのソーセージ、クスクス、それにサラダが、青いシートの上に広げられた。
ソーセージの肉はシカだという。テリーは時々シカ狩りをやって、ソーセージ用のシカ肉を手に入れるそうだ。シカ肉といっても、シカの味がするわけではない。それに、ニューカレドニアにシカがいるという話を初めて聞いたので、私はテリーの話に疑いを持ってしまった。ところが、民宿の庭の隅に、大きな角を持ったシカの頭骨が、無造作につるされているのを見た。テリーの話は本当だった。
帰りに、テリーの父の民宿で分厚い写真アルバムを見た。そこに、日本人の若い女性が、ウミヘビの尾を持って、ヘビを手にぶら下げている写真があった。妻は再び驚いた。今度はウミヘビにではなく、勇猛な若い日本人女性に対しての驚きだった。
アルバムを見ると、テリーの客の大部分は日本人であることが分かる。サンゴ礁でのシュノーケリングや、海づりをしている日本人の写真がたくさんあった。グリーン島周辺で、カジキマグロのような大きな魚ばかりではなく、サメまでつれる。テリーのつり客の写真を見て、周辺の海は魚種が豊富で数も多いことが、容易にうかがえた。つり好きには天国のようなところだ。
ツアーガイド、モーターボートの運転、つり、狩猟、料理など、趣味と仕事を兼ねた、いろいろなことができるマルチタレントのテリー。特に、ツアーガイドは話好きな性格にぴったりの職業だ。 話好きのテリーは、自分のプライバシーを私たちにさらけ出したが、私たち夫婦のプライバシーには何の興味も示さなかった。