地元のナツメロ・クラブで世話人を12年間やっている。私が選曲をし、歌集(歌詞カード)を毎月更新する。私の持ち歌だけではとても間に合わない。知らない歌をYuoTubeで聞きまくり、主観で選曲をする。
例会は月に2回あり、毎回2時間で20曲弱の歌を歌う。かなりきつい。伴奏だけで歌うカラオケは、歌い込んだ曲でなければ歌唱が難しい。ナツメロ・クラブでは、CDラジカセで歌手の歌を聞きながら歌うので、通常のカラオケよりも歌いやすい。合唱団とは違い、上手下手は全く問題にしない。知らない歌は聞き流せば良い。一人ひとりが自分の思いに沈み込んで歌う。
疲れた雰囲気を醸していた会員が、例会が終わる頃には明るい表情になっている。陽気な歌だけではなく、演歌のような暗い情念に満ちた歌を歌っても、気持ちが高揚することは間違いない。なぜだろうか?会員の中には、心の憂さを晴らすために歌う、と思いを直截的に言う人がいる。
そもそも歌唱とは何だろうか?上の事例から推測できるように、頭の上のほうの活動ではなく、人の根源的な本能から発するように思われる。技術的には、メロディと歌詞(言葉)が渾然一体となって、歌は成立する。本能を突き動かすメロディと歌詞の起源を、進化にまで踏み込んで考えてみたい。
動物が海から陸へ進出したのは、およそ4億年前だった。大気中では声が遠くまで届くので、陸上動物になってから発語機能が発達した。単純な音、あるいは叫びだった声が、情報伝達手段として使われるようになった。声によって複雑な意思を表現できるようになった。この能力は集団性動物で特に発達した。
動物の鳴き声は、個と種の生存において重要な役割を果たす。仲間に危機が迫っていることを伝え、獲物を追いかけるために合図を送り、発情期に至ったことを知らせる。抑揚のある動物の鳴き声をメロディの起源と考えると、メロディが人の本能に訴えかける力があることを、容易に理解できる。
ロボットを使って人の心を研究している、大阪大学の高橋英之によると、音とリズムを聞いて活性化される脳の部位に、視覚野が含まれる。音とリズムのシンクロによって、存在しないものが見える錯覚が生じやすくなるという。この脳の機能は、生存との関連で、音を発する情報源を視覚的に捉えることを助ける。歌唱においては、想い出の視覚化が助けられることによって、歌に没頭できるようになる。
クラシック音楽で典型的に認められるように、音だけで人の感情が突き動かされる。喜び、楽しみ、不安、悲しみ、恐怖、夢想が、聞いている人に発揚される。音楽を形づくる要素は多様で、テンポ(速度)、リズム(律動)、メロディー(旋律)、ピッチ(音の高さ)、ハーモニー(和音)、高低の音域などが含まれる。
アップテンポの曲には気分を高揚させる効果がある。逆に、ゆったりと遅いテンポの曲には鎮静効果がある。高音のほうが明るく楽しい気分になりやすい。低音は暗く悲しい気分を誘発しやすい。
テンポや音の高低、それにリズムや曲調が、大きく変化する曲がある。このような曲は、驚きや動揺を生み出し、短時間の間に喜びと悲しみ、高揚と鎮静など、異なる感情を引き出しやすい。若者向けの大音響のライブでこのような曲が演奏されると、若者が熱狂する。
言葉として明確に認識される声を出すのは、進化上では鳥類からだ。ブンチョウ、ジュウシマツ、カナリアなどは、さえずりが得意だ。オウムやインコは人などの声をまねる。これらの鳥は、声を出す手本を真似ることによって学習し、鳴き声を上達させる。
京都大学白眉センターの鈴木俊貴によると、シジュウカラは20以上の単語を持ち、それらを組み合わせて話をしている。鳴き声には200以上のパターンがあるという。ヒナは餌をねだるために鳴き、その鳴き声に親は抵抗できない。多くの種類でオスがよく歌う。歌が、縄張りの防衛と求愛に効果的なことが、その理由だ。
進化的には、声の抑揚が、まず情報伝達手段として使われた。言葉を使うようになっても、声の高低とリズムが、重要な役割を演じている。これを考慮すると、本能から発される歌の主役は、メロディになりそうだ。同じ歌でも、歌手によってやや異なる歌詞で歌う場合がある。歌詞が少しくらい変わっても、ナツメロ・クラブで歌っている人は余り気にしない。メロディが変わると、途端に歌いにくそうになる。メロディのほうが、記憶にしっかりと残っている証拠だ。
作曲家と作詞家の立場は微妙だ。上の事例から、歌詞よりもメロディのほうが、歌において重要な役割を演じていると思われる。しかし、人は語彙を大きく増やした動物だ。一つひとつの言葉と、それらの言葉のつらなりが表現する微妙な意味が、歌にとって大事なことは疑いようがない。作詞家の重要性を否定はできない。
また、歌は、歌手が異なると、ヒットすることもあるしヒットしないこともある。歌の原点は、情報伝達のツールである、言葉の表現力の強化だ。歌う歌手の情動が聞き手に影響を与えることは、容易に想像できる。
歌は抑揚のある話し言葉と言える。抑揚が、言葉の効果を増幅させる。一体化した言葉とメロディが、感情に複雑な影響を与える。沈潜していた思いを表出させることになるので、情動の発露に役立つ。
フロイトの精神分析によると、人の行動は、精神の無意識的な部分に支配されている。精神疾患を治療する方法に、無意識下で抑圧されている感情や記憶の意識化がある。それらの感情・記憶を意識に戻し、受け入れさせることで症状の軽減を目指す。この手法と、歌を歌うことによって心が晴れることには、心理的に共通の基盤がありそうだ。
その時の気持ちに合う歌を聴いたり歌ったりすると、ストレスの緩和に役立つ。一般的に言えば、イライラしている時には、歌詞やメロディが激しい歌を聴くと、心が落ち着く。落ち込んでいる時には、ゆったりとした穏やかな歌が良い。悲しい時に悲しい歌を聴くと、悲しい気持ちが昇華される。
耳から入った歌は、外界からの情報として聴覚器官を通して脳に入る。知覚や思考に関わる大脳皮質や、情動や記憶をつかさどる大脳辺縁系など、脳の多くの領域に作用する。生存のために必要な活動は、脳内で快感を感じさせる生理反応を生み出す。それによって、その活動を積極的に行うようになる。進化において、生存との関連で発達した歌に、この傾向を見ることができる。
鳥では、歌うことによって、脳内で陶酔を生み出すオピオイドが産生される。人の場合は、言葉をメロディーに乗せるようになってから、この生理反応が強化された。歌によって、セロトニンやドーパミン、エンドルフィンなどの幸せホルモンが分泌される。これらのホルモンには精神安定の効果があり、幸福感や満足感を与える。生存のために必要だった発声器官の活動が、人では生存の目的から離れた。歌それ自体が生み出す快感を、楽しむ方向へ進化した。それがカラオケの隆盛につながった。
自律神経には、活動している時に働く交感神経と、休眠している時に働く副交感神経がある。歌は自律神経系に作用し、心拍や血圧を変化させる。興奮や鎮静、そしてリラクゼーションなどの効果をもたらす。心の状態にも影響を与え、感情、知覚、認知を活性化させることが分かっている。
交感神経の緊張がほぐれると、不安が軽減する。好きな歌を歌ったあとに唾液の量が増え、コルチゾールなどのストレスホルモンが減少する、という実験結果がある。これが、免疫反応の亢進につながると思われる。
歌うことによって体機能も改善される。横隔膜の上下運動が促進されるので、肺の機能が亢進する。酸素が多く取り込まれて代謝が助けられ、胃、腸、肝臓などの内臓に好影響が及ぶ。
歌は、生体機能へ直接的に作用するだけではない。時間を超越させる。青春時代に体験したことは記憶に残りやすい。10代後半から20代にかけて繰り返し聴いた歌は、想い出として生涯に渡って心に残ると言われる。
想い出に残る懐かしい歌を聞いたり歌ったりすると、喜び、楽しみ、幸せ、満足、安心など、ポジティブな感情が呼び覚まされやすい。光り輝いていた過去に結びつく歌を歌うことによって、ストレスだらけの今の生活を、一瞬でも忘れることができる。ナツメロ・クラブで会員が歌っているのを見ると、青春時代に歌った歌に埋没して、幸せな時間を過ごしているのが、よく分かる。
歌う行為は、情報伝達を起源にしていることから、ナツメロ・クラブのようなグループで歌うことで、疑似的な情報交換が行われることになる。
自分と他の会員の表現行為がハーモナイズされ、他者への親近感が高められる。また、歌が自分の過去の記憶を呼び覚ますので、他者が自分の過去へ入り込むような疑似体験を得られる。この感覚が、他の会員との接触が、過去から長期に渡って続いていたような錯覚を生み出す。これによって、他の会員との心の結びつきが強化される。
1960年代頃から、「疎外」や「性」をテーマにした歌謡曲が、評価されるようになった。演歌として、一つのジャンルが確立された。演歌の歌詞と歌唱法は、日本人独特の感覚や情念に基づいている。しかし、「こぶし」や「うなり」を効かせた物悲しい歌は、黒人のブルースにもある。歌詞は、演歌と同じように、身近なできごとや感情を表現している。
欧米の作家の作品には、空想や虚構の要素を取り入れた、壮大な小説(ロマン主義、写実主義)が多い。これに対して、日本の作家の作品は、作者が経験した事柄を素材にした、私小説が中心になる。作者の内面を描写している私小説と、情念を歌う演歌には共通点がある。両者とも日本人の精神構造に結びついている。
密室で、自分の思いに沈み込んで歌うカラオケは、日本で発祥した。この歌唱スタイルは、情念を歌い込む演歌が好きな、内省的な日本人に受け入れられやすかった。
多くの演歌の節回しは、どれもよく似ている。一度演歌の曲調をつかむと、演歌は歌いやすい。独特な世界観と、大仰で切ない演歌のメロディーに惹かれる外国人が、徐々にではあるが増えているという。
1960年にリリースされた「アカシアの雨がやむとき」(作詞:水木かおる、歌:西田佐知子)が、昭和演歌の一里塚になった。暗くてやり場のない、死につながる情念が審美化され、演歌のジャンルの一つが確立された。気持ちを高揚させる陽気な歌とは、表現が真逆だ。鬱屈した気持ちが昇華されるので、歌うことによって平常心がもたらされる点においては、陽気な歌につながる。
「アカシアの雨がやむとき」1番男女間の切ない情愛や別れなどが、演歌ではしばしばテーマになる。初期の演歌には不倫の歌が多く、「尽くしたけれども捨てられた」と歌われる。ドロドロした歌詞と曲に嫌悪感を感じる人がいる。品性のない不倫の歌と批判されることがある。けれども、男も女も生臭い本能を抱えているという現実がある。最近では、高名な女優とのダブル不倫を「純粋な愛」と表現した、有名シェフがいる。女優は、自分が体験した、生々しい性愛を手書きで描写した。それが書かれたラブレターをシェフに送った。
猿山のメスが、ボスの眼を盗んで他のサル山のオスと交尾するのは、珍しいことではない。一夫一婦制は人類史における普遍的な道理ではない。時間的にも空間的にも乱交が広がっている。遺伝子の多様性を増大させようとする、生き残りのための生物の本能が、その裏にある。
不倫を歌う代表的な演歌に「天城越え」(作詞:吉岡治、歌:石川さゆり)がある。
「天城越え」2番この歌は暗い。心の奥底に潜んだ女の情念が、切々と歌われる。1番から3番へと歌が進むにつれて、その情念が少しずつ表面化され、昇華されていく。最後に透明感の境地に達する。