Essay 90

歌舞伎、宝塚、演歌における性の逆転

2025年3月22日
和戸川 純
生物学的にも心理学的にもあいまいな男女の境

当サイトの「危機を乗り切る驚異の生存戦略」で述べたように、オス(男)とメス(女)という性の分離が、生物の生存のために必要なわけではない。特別に分化した細胞を除いて、私たちの体細胞の一つひとつが、一人の人を作り上げるのに十分なDNAを持っている。国際的に禁止されているので誰もやらないが、人の皮膚の細胞からその人のクローン人間を作成できる。

不要に思われる性の分離だが、生物の生存のために重要な意味を持つ。オスに乳首があることからも分かるように、性の基本はメスで、オスを生み出すMID遺伝子は、30数億年前に生きていた、祖先の単細胞生物によって準備された。同一個体に雌雄器官が備わったのは15億年前で、オス(XY)とメス(XX)の個体に分かれたのが5億4000万年前だった。高等動物では、2つの性が「恋した、愛した」という面倒な手続きを経なければ、子が誕生しない。それは2個体のDNAを混ぜ合わせることで、子の遺伝子プールに多様性を持たせるための作業になる。激変する環境に適応して進化するために、この多様性が決定的に重要な意味を持つ(「絶滅をバネに進化する生物」)。

生物学的に雌雄は完全には分かれないが、心理学的にも同様のことをいえる。男性は力強く堂々としていてワイルドだが、女性は繊細で脆弱かつ優しく思いやりがある、というように定義してしまうと、この分類からはみ出てしまう人たちが大勢いそうだ。

「歌う行為の心理と効果」で、歌うことは生物の本然に結びついた行為で、演歌で表現される情念は、その本然から発していることを指摘した。演歌では、「女唄」を男性が歌い「男唄」を女性が歌う。これによって虚構の情念を深く掘り下げることができる。

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上記の生物学的な知識を踏まえた上で、性と演芸・芸術に関する、私なりの理解を当記事で述べる。芸術分野における性の逆転現象については、ネット上で多くの方々が個人的な見解を述べている。そのようなご意見を参考にしたことを、お断りしておきたい。

ヨーロッパと日本で異なる性の逆転

16世紀のイギリスの演劇、17世紀のヨーロッパのバロック・オペラ、同時期に日本で誕生した歌舞伎、それに1913年に設立された宝塚歌劇団の演劇には、役者の性の逆転という共通点がある。生物学的にも心理学的にもこのような逆転があっても不思議ではないが、比較分析をすると、いろいろな民族の異なる文化的背景が、この逆転に反映されていることが分かる。

男性優位の社会では、女性が劇場で演じることはしばしば禁止される。そのような社会では、演技構成の必要上、男性が女性を演じざるを得ない。16世紀のイギリスにおけるシェイクスピア劇において、女性の役は、若い男性、あるいは男の子によって演じられた。ややこしいことに、女性役の男性が男性の衣服を着ることによって、能力や知恵を発揮する女性像を演じた。社会的規制を逆手に取って、シェイクスピアは男性の思いを反映させた女性を創り、その虚構の女性を男性が演じることによって、現実の女性以上の魅力を生んだ、と評される。
イタリアのヴェネツィアやローマで始まったバロック・オペラでは、女性が舞台に立つことをローマ教皇が禁じたために、去勢された男性(カストラート)が女性を演じた。ボーイソプラノの特徴を残しているカストラートは、広い音域と力強い声で歌うことができた。

日本では、男性優位の規範が演劇になかったために、歌舞伎は出雲阿国という女性によって創造され、当初は女性だけで演じられた。宝塚歌劇の誕生には、このような日本独自の社会風土が反映されている。

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1629年に、徳川幕府が、女歌舞伎と癒着していた売春を防ぐために、女歌舞伎を禁じた。その結果、男性が女性を演じる女形(おやま)を含む、男歌舞伎が誕生した。歌舞伎における性の逆転は、ヨーロッパの演劇とは異なる経緯を辿って成立したことになる。
男性が女性を演じるようになってからは、ヨーロッパと同じように、女形は男性がイメージする女性を表現するようになった。現実には存在しない、男性によって創られた虚像の女性が、現実の女性にはない不思議な魅力を発散する。男役についても同様のことをいえる。生け花や能、茶、それに石庭などの象徴的な様式美を創出した日本人は、男を極端に強調した、虚像の男性を歌舞伎に登場させた。観客は虚構世界に身を投じる。

男役がいる宝塚歌劇は世界的に異例

宝塚歌劇の異質性は、女性が男性を演じるところにある。男性同士で男女の恋愛模様を描くことには寛容だった欧米の観客だが、女性同士が演じる男女の恋愛模様には抵抗感があった。宝塚歌劇は、海外公演でホモセクシュアルという批判を受けた。海外の観客は、役者が演じる2つの性の関係を直截的に見るが、日本の女性ファンは、2つの性の虚構の関係を友情の延長線上で捉えるのかもしれない。それが事実ならば、日本女性は、女性同士の友情を先導することを同性の誰かに期待し、その先導者の理想像を宝塚歌劇の男役に見ていることになる。

男役による誇張された男らしさの中に、一瞬垣間見える弱さが母性本能を掻き立てる、という指摘がある。ただ単にりんとした硬派の男性ではなく、可愛げのある男性が好まれる。抱いてくれる男性よりも、抱きたい男性によって子を守る母の本能が刺激される。

男役を演じる女性は、女性の気持ちをよく分かるので、女性が求める理想の男性像を演じることができる。女役はあくまでもたおやかで美しく、現実離れした女性像を演じる。恋愛に対する女性の思いは、男性よりも複雑かつ密やかで、宝塚歌劇がそんな思いを表現する日本文化の一つになった。

女性が男役を演じる演劇は数が少ないが、中国の越劇がそれに相当する。女性が女役も男役も演じ、観客には女性が多いという宝塚歌劇に似た特徴がある。宝塚歌劇と異なるのは、数が少ないながらも男性が加わることだ。もともとは男性だけの演劇だったが、男性後継者の不足が、女性の多い優雅な劇に変貌させた。

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日本を作った天照大御神は女神で、邪馬台国を統治した卑弥呼も女性だった。農耕民族には、忍耐強く農作業に励む女性に尊厳を与える気風があり、それが世界でも稀有な宝塚歌劇団の誕生につながったと思われる。
農耕民の日本人にとって、男性と同じ農作業をする女性を、生活の場で平等に扱うことは自然だった。そこでは男女の性差がありのままに受け入れられる。狩猟民の生存は、強靭な肉体を持つ男性が主導権を握って、食料になる動物を捕獲することによって保証される。そのような社会では、保護が必要な女性は脇役になってしまう。

男女平等が認められている現代において、ヨーロッパでは男性が女性を演じることが少なくなった。これに対して、日本では女形や男役が演劇の魅力として今も残っている。性の逆転が演劇の一つの表現方法として始められたことが、日本の特殊性を永続的なものにしている。

日本語には男言葉や女言葉が多数あり、両性が言葉で自分の性を自由に表現できる。英語には男女の間に明確な言葉の相違がなく、男女差は微妙な表現の違いに現れる(参照「EIGODEN、女性の英会話劇場」)。

I may be wrong, but….(私の言ってることは間違っているかもしれないけど…)

女性は上のようなdisclaimer(責任放棄発言)を口にすることがある。女性には強い防衛本能があり、「予想される反論への自己弁護」や「やわらかい口調で良い人を演じる」という心理が働いている。女言葉を持たない英語圏にこのような表現が多い。

男性に都合のいい女を表現する女唄

演歌では、男性歌手が女性の気持ちを歌うことがよくある。

● 男性歌手が歌う女の歌(女唄)
知りたくないの
菅原洋一
「あなたの愛が真実なら、ただそれだけでうれしいの」
細雪
五木ひろし
「おとこの嘘を恋しがる、抱いてくださいもう一度」
さざんかの宿
大川栄策
「燃えたって燃えたってああ他人の妻...明日はいらないさざんかの宿」
港町ブルース
森進一
「明日はいらない今夜が欲しい...女心の残り火は燃えて身を焼く桜島」
心のこり
細川たかし
「あなた一人に命をかけて、耐えてきたのよ今日まで」
東京砂漠
内山田洋とクール・ファイブ
「あなたの傍でああ暮らせるならば...あなたの愛にああつかまりながら」
なみだの操
殿様キングス
「あなたのために守り通した女の操...泣かずに待ちますいつまでも」
女のみち
宮史郎とぴんからトリオ
「捨てたあなたの面影が、どうしてこんなにいじめるの」
雪國
吉幾三
「女ひとりの部屋には悲しすぎるわ、あなた」
氷雨
佳山明生
「あたしを捨てたあのひとを...もっと酔う程に飲んであの人を忘れたいから」
昔の名前で出ています
小林旭
「あなたがさがしてくれるの待つわ...ひろみの命とかきました」

私は地元のナツメロクラブで10年以上世話人をやり、いろいろな機会に歌のリクエストを募った。男女別のデータがないのは残念だが、女唄の人気ランキング上位3位までは次のようになる。1. さざんかの宿、2. 昔の名前で出ています、3. 雪國。生々しく燃え上がる女の情念と、離れている男への思慕を歌い上げた演歌が、3位までに入っている。

主要な男性演歌歌手のほとんどが女唄を歌っている。明らかに女唄には大きなマーケットがある。上のリストに、見かけでは女性の対極にいる、ごつい男性歌手の名前が並んでいることに注目したい。演歌における性の逆転は、ホモセクシュアルとは無関係なことを示唆する。

男に都合のいい、性愛にもだえる女の情念が、歌の妄想の中で表現される。女は全身全霊を傾けて愛に没入し、自分の身の破滅につながっても愛の代償を求めない。男がどのように冷たくあしらっても、女が男を想う気持ちには変化が生じない。女はいつ戻るか分からない、自分を捨てた男を永遠に待ち続ける。
愛において受け身になりやすい女は、恋焦がれる男からの積極的なアプローチを待つ、「報われない私」になりがちだ。それでも心変わりすることのない、けなげな女が、男にとっての夢の中の女になる。

現実の世界には存在しない虚構の女性だ。女性から見るとたわいもない男性の妄想で、そこで表現されている女性像などは、現実の女性にとってはどうでもいいかもしれない。

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女唄は男性の身勝手な欲望を表現しているが、視点を変えると、たたかれてもたたかれても生き抜く女性の根源的な強さが、見えてくる。心ない人間や社会に対する男性の恨みつらみをストレートに表すと、暗く重くなってしまう。女唄を好む男性は、女唄に現れる強い女性に同化して、日々の生活で困難をもたらす人間や社会に対する、恨みつらみを昇華させているのかもしれない。男唄よりも虚構性が強い女唄のほうが、男性は恥ずかしげもなく昇華体験に埋没できる。

酒と女で男性を癒す男唄

逆に、女性歌手が歌う男唄にはどのような演歌があり、そこにどのような気持が込められているのだろうか?

● 女性歌手が歌う男の歌(男唄)
祝い酒
坂本冬美
「七つ転んで八つで起きろ、明日は苦労のふたり坂、縁がうれしい祝い酒」
男の情話
坂本冬美
「決めた道なら男なら、泣くな濡らすな夜の雨」

美空ひばり
「勝つと思うな、思えば負けよ」
出世街道
畠山みどり
「敵は百万こちらはひとり...出世街道色恋なしだ」
いっぽんどっこの唄
水前寺清子
「若いときゃ二度とない、どんとやれ男なら...涙かくして男が笑う、それがあの娘にゃわからない」
舟唄
八代亜紀
「お酒はぬるめの燗がいい、女は無口なひとがいい...あの頃あの娘を思ったら、歌い出すのさ舟唄を」
港町十三番地
美空ひばり
「長い旅路の航海終えて...君と歩くも久しぶり」
好きなのさ
美空ひばり
「俺の心に灯をつけて恋の命を燃やす奴...俺の二度ない人生をそうだお前にあずけよう」
おれとおまえ
川中美幸
「雪をはらったあの夜は、死んでいいわとすがってくれた...おれにゃすぎるぜ恋女房」
ふたり酒
川中美幸
「生きてゆくのがつらい日は、おまえと酒があればいい...心に笑顔たやさない、今もおまえはきれいだよ」
もう一度だけ
小林幸子
「おまえにゃ苦労をかけるけど、一生かけて返すから...小じわに夕陽が沁みたって、笑って空を仰げるさ」
みちのく風の宿
都はるみ
「薄い布団にくるまって...なにもおまえにゃやれないが、せめてあげたいこぼれ陽を」

男唄の人気ランキング3位までは次のようになる。1. ふたり酒、2. 舟唄、3. 祝い酒。演歌では酒がムードを盛り上げるためによく使われる。その酒が上の3曲で歌われている。女唄でも酒が背景の演出として使われるが、男唄ほどではない。女の情念を酒でごまかしては情念の本質を表現できない、という作詞家の思いがありそうだ。

男唄では、女と酒が、仕事での男性の苦労を忘れさせる、2つの道具立てになる。男の情念は、酒が与える酔いで発散されるという理解は、男性としては寂しい。けれども、その程度の情念しか持っていなければ気楽で、ややこしく重い情念で苦悩することはない。自分をずっと想ってくれる女と酒があれば、男は満足する。家の外で仕事をするのは男性という前提で、男性への癒し効果(酒と女)を狙った歌がヒットする、という現実がある。

女唄では男に捨てられる女が登場するが、男唄では男が女に捨てられることはない。自分についてくる女に情けをかける。それで女が喜ぶのだから男としては気楽だ。女性歌手が男性を満足させる歌を歌うので、男性としての自意識が余計にくすぐられてしまう。

「演歌」の究極の曲想は「怨歌」になる。女が捨てられる女唄のほうが、酒と女でうっ憤を晴らす男が登場する男唄よりも、より「怨歌」らしくなる。女の情念を歌う「怨歌」が、男の恨みつらみを簡便に昇華させてくれるので、この歌のジャンルがなくなることは考えられない。


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