学習は、環境へ適応して生存するために必要な行為で、人間ばかりではなく動物も普通に行っている。森の中で一度敵に遭遇すると、近づく敵が立てる物音や、樹間からもれ出る敵のにおいを記憶する。次回の遭遇において、記憶に残っている音やにおいに気づくと、敵が視界に入る前に遠くへ逃げる。 草食動物が食べ物を手に入れると、周囲の植物の繁茂状況を覚え、似たような植生のところを探すようになる。
学習した個体が次の行動を取る時に、自分の記憶に頼る。この学習効果は、個体の経験の範囲内に限定される。失敗を繰り返しながら目的に迫る試行錯誤が、学習に含まれる。これによって環境に適した行動を取れるようになるが、学習の効果は限定的だ。
教育は、自分の経験を通して学習した知識や技術を、他の個体に教えること、と定義できる。他者による教育によって、学ぶ者の学習範囲が自分の経験の枠を大きく超える。教育を受けた個体は、まだ遭遇したことのない多様な環境にも、それらが現実化した時に適切に対応できるようになる。
人間の教育の原型になる動物の学習や教育について、次のようなことが知られている。
京都大学白眉センターの鈴木俊貴によると、シジュウカラは「ジャージャー(ヘビ)」や「ヒーヒー(タカ)」のような単語を使って、敵が来た時に仲間に知らせる。「ピーツピ・ヂヂヂヂ」は「警戒して・集まれ」という意味で、文法を操って文章を作成することができる。巣箱で子育て中のメスが「チリリリリ(おなかがすいたよ)」と鳴くと、オスは「ツピー(そばにいるよ)」と答えて食べ物を持ってくる。
オオカミは、つがい(オスとメス)とその子から成る家族を中心にして群れを作る。群れの序列は体格や力ではなく、性格や態度によって決まる。頭脳明晰で信望が厚い個体がリーダーに選ばれ、序列は互いに確認をしながら全員で維持する。子育ては巣穴を作ったメスを中心にして、父や他の仲間達が協力して行う。遠吠えなどのコミュニケーション方法や、集団内の序列の維持と集団での狩りの仕方などを、子は大人から学ぶ。
オオカミがヒトを襲うことはない。知能が高い個体をリーダーに選び、集団の規律を厳しく守るオオカミは、自分達よりも知能が高いヒトを攻撃することを、避けると思われる。これが、オオカミが家畜化されてイヌになった理由に違いない(「サバンナで生まれた人・犬運命共同体」)。
ライオンの親は、生きている獲物を子に与えて狩りを学ばせる。また、子同士がじゃれあって狩りの練習をする。シャチはライオンに似た行動を取る。獲物を追い回してもて遊んでから、無傷で獲物を解放することがある。子連れの場合は、子への教育の意味があるかもしれない。成獣だけの場合は、狩りのスキルを磨いている可能性がある。
立ち上がって周囲を見渡す、マングース系のミーアキャットの映像をテレビで見る。ミーアキャットは集団で行動し、群れの中の年長者が協力し合って子に生きる術を教える。好物はサソリだが、サソリから毒針を取り除く方法を子は年長者から学ぶ。
サルは、進化上はオオカミなどよりもヒトに近いので、教育熱心のように思うかもしれないが、必ずしもそうではない。サルの学習は模倣が主体になる。子猿は、同じ集団の母猿から見よう見まねで子育てを学ぶ。その学習には授乳から乳児の抱き方、更には子の守り方までも含まれる。小さい時から人間に育てられると、自分が母になっても子育てができなくなる。
行動生態学者の多くは、動物の学習は模倣に限られ、仲間に「教える」ことはないと考えてきた。人間だけが教育をすると主張すれば、人間の自尊心が満たされるので、反対論は出にくかった。ところが、上に書いたように、模倣の要素が強いとはいえ、教育をする動物がいる。
動物の教育は、親が子に行うというように家族・集団内に限定される。出産を経て乳幼児を養育することに最も深く関わる母が、教育の中心になることが多い。オオカミやライオンなどの集団性動物は、大人達が協力して子を教育する。
人間と動物の教育には明確な相違がある。人間には教えることを職業にしている教師がおり、教わる側の人間は人生の一時期を学習のみに費やす。石器時代の人間には今のような教育制度がなかったので、教育制度が人間に普遍的な社会システムというわけではない。高度な教育システムは、集団の一部のメンバーが物の生産活動から離れても、集団全体の生存に影響を与えないほど富が社会に蓄積された時に、初めて構築される。
人間の教育は動物の教育とは質的に異なる。新しい知識や技術が、それらを生んだ集団内に留まることがない。空間や時間の壁を乗り越えて集団内外へ広く伝えられる。伝えられた知識・技術が他の人々によって改善され、更に多くの人々へ伝承される。重層化された歴史を貫通する教育によって知が積み重ねられ、人間だけが時間をかけて文明を構築し発展させることができた。
600万年の人類史において文字がない時代が長かったが、人間は豊富な言葉を使って先祖代々伝わった知識を子孫に語り継いだ。狩りなどを描いた壁画も知識や技術の伝承に有効だった。文字が最初に用いられたのは、約5000年前の古代メソポタミアにおいてだった。文字によって生活の詳細な記録が残され、異なる時間と空間に住む多くの人々と、知識が共有されるようになった。以後、文明の進歩が加速した。
文字の発明が教育の高度化に貢献し、最初の学校が、4000年以上前にメソポタミアやエジプトで創設された。学校では読み書きや計算、それに王家の歴史や神話が教えられた。多くの人々に知識を授ける学校という教育システムによって、教育の高度化と効率化が達成された。教育が文明を推し進める原動力になると、文明化された人間が人間であるために、教育は人間に不可欠なものになった。
マウスのゲノム解析によると、マウス・ゲノムの99%がヒトと一致する。遺伝的にはヒトとマウスの間に大きな相違はない。ヒトとマウスの見かけや能力の違いの多くが、遺伝子発現と呼ばれる複雑な過程を経て決定される。遺伝子発現には環境からの影響を受けて変化する、という柔軟性がある(「ビッグバンから始まった生物の進化 」)。人間の能力と性格は、遺伝子によっては30%しか決定されないといわれる。残りの70%は、生後の環境との関わり合いによって形成される。ここで教育が重要な役割を果たす。
100年ほど前のことだった。インドの山奥にあったオオカミの巣穴で、「2頭のヒトのような動物」が見つかった。大きい子は歯をむき出して捕獲者を威嚇したのに対して、小さい子は自分が置かれている状況を呑み込めなかった。2人は孤児院で育てられたが生肉しか食べず、4つ足で走り回った。話はできず遠吠えをした。「泣く、笑う」という人間的な感情を表現することもなかった。大きい子はオオカミとして短い人生を終えたが、小さい子は2年かけて2本足で立てるようになり、5年後にトイレに行けるようになった。
2人は産まれてすぐにオオカミによって連れ去られ、乳幼児期を通してオオカミに育てられた。この事例から、ヒトは人間として生まれるのではないことが分かる。乳幼児は、人間にもオオカミにもなる白紙の状態にある。両親をはじめとする人間家族による多様な教育の結果、初めて人間らしくなる。このことは、ヒトの環境への適応力が極めて高いことを示す。ヒトよりも適応力が低い動物は、どのような環境下で教育されても人間化することはない。
遺伝子はヒトだが、行動パターンはオオカミという「動物」が作られることから、教育を単に善として受け入れるのは危険なことが分かる。教育の内容によってはヒトはオオカミになってしまう。オオカミを作らないために教育は注意深く実施されなければならない。
出生後の教育の重要性は、解剖学によっても裏づけられる。大脳皮質の神経回路は3層から構築されていて、最外層に哺乳類で初めて形成された新皮質がある。知覚、思考、言葉、推理、それに自分の意思でコントロールできる随意運動などの高次機能を担う領域だ。この新皮質が人では特に大きい。
その内側に両生類に進化した時にできた大脳旧皮質がある。脳のこの領域は、自分の意思でコントロールできない、自律神経系の機能を受け持っている。情動や食欲・性欲、それに睡眠などの本能に関与する。
最内層に海馬などが含まれる古皮質がある。大脳皮質の中で最も古い領域で、5億年前に魚類が誕生した時に形成された(「絶滅をバネに進化する生物」)。生存に関係する原始的な記憶や情動、それに嗅覚などの本能に関与する機能を担っている。
学習によって新皮質に新たな神経回路が形成され、新皮質の機能が変化する。新皮質から旧皮質へ至る回路を介して情報が伝達され、まず旧皮質で、次に古皮質で神経回路が活性化される。これら3層の神経回路が協調して思考や情動を生じさせ、記憶や本能として経験が脳内に蓄えられる。古皮質から始まる逆方向の神経回路の活性化も存在し、記憶や本能が新皮質に生じた思考に影響する。
ヒトの新皮質は大きいので、その領域の活性化が、旧皮質や古皮質の神経回路の活動を大きく変える。行動がオオカミ化したばかりか、オオカミの本能まで獲得したヒトの子が、その具体的な事例になる。
文明の伝達と進歩を考える時に、ヒトを人間たらしめる知的活動を担う新皮質に、注意を向けなければならない。新皮質の機能は大きく2つに分けられる。
1つ目の機能は、祖先から伝えられた知識や技術を、次の世代へ伝達する役割を果たす。教育はこの機能によって担われる。茶道、華道、舞踊などにおける日本の伝統的な家元制度が、この典型的な例になる。家元は免許状の発行権を持ち、受け継がれてきた知識や技術を弟子達に伝授する。この制度では、伝える知識を加工したり修正したりすることは許されない。
伝える知識を本質的に変えてしまえば、ゼロからの出発になってしまう。文明を維持し伝達する活動の根本のところが崩れる。世代から世代への知識の伝達が止まれば、人間の知は動物と同じレベルに下がってしまうので、第1の機能が意味するところは極めて大きい。
2つ目の機能は、今までの世代が想像もしなかったような知識を新しく創造し、継承した既存の知識の上に積み上げていく作業になる。文明を進歩させるにはこの機能が必要だ。
以上の2つの機能が担う作業は車の両輪になるので、同時に機能させなければならない。しかしながら、知の保存(保守)と創造(革新)という相反する作業を同時にこなすことには、困難がある。「創造的破壊」という言葉が示すように、既存の構造を破壊してから新しい構造を生み出すほうが容易だ。この困難をどう乗り越えるのかが、教育に課せられた重要な課題になる。
日本の教育は、過去に蓄積された知識を現世代が学び、更に次世代に伝えるという点で非常に成功した。これは、日本的な文化の伝達だけに限定されなかった。古くは中国文明と朝鮮文明を積極的に吸収し、新しくは西欧文明を吸収し伝達している。
日本人はここまで西欧化されていながら、祖先が生み出した文化や精神を失っていない。これは、伝えられてきた文化の上に、その起源がどこであろうと、新しい異質な文化を付け加えてきたことを意味する。対立軸を中心にして回転する、西欧文明を作り上げた欧米の人間にとって、この無節操に近い日本人の柔軟性は、驚くべきことだ。日本人以外に、ここまでうまく異質な文化と精神の吸収・伝達に成功した民族はいない。
既存の知識の学習という点では日本人は成功したが、人類の文明の進歩に日本人が貢献するには、それだけでは足りない。全く新しい知識を自ら創造し、それを既存の知識に上乗せするようなことを、日本人はできるのだろうか?鎖国によって世界から隔離されていた江戸時代に、独自の文化を発展させた。島国で生活を営んできた民族の特徴として、他国からの情報や文化の影響がない時には、創造力を発揮できることは間違いない。
あらゆる異質なものが混じりあう現代のグローバル化された世界は、日本人が慣れ親しんだ島国の閉鎖社会とは質的に異なる。世界に出るためには、自分を殺す自己滅却の精神を、自己主張で特徴づけられる個人主義に融合させなければならない。日本の伝統的な教育では、それをできる日本人を育てるのは困難だ。なぜならば、自分を全体に埋没させる、受け身の人間を育てる教育がなされてきたからだ。
典型的な例は受験教育だ。ただ進学するだけのために、学校で塾で膨大な量のエネルギーと時間が消費されている。受験教育がシステム化され、そのシステムの中で、生徒は与えられた課題だけに取り組むことを要求される。
この頃は改善されてきたとはいえ、私が大学生の頃は、大学は教育と研究のためだけの内向きの機関になっていた。大学は、社会から切り離されて存在するのが、理想とされた。「象牙の塔」化した大学で、現実逃避的な学者が、研究・教育至上主義の旗のもとで孤高を世に誇った。企業と連携して研究・教育をする教授は、「産学共同を進める悪魔」というような言い方をされた。
教育は目的ではなく、あくまでも手段に過ぎない。教育至上主義になってしまっては、学生が社会的にも経済的にも心理的にも充実した人間になるのは、困難になる。教育の視点は、社会を見据えたところに置かなければならない。社会を改善し、社会を進歩させるための教育が機能すれば、教育は文明の進歩に大きく貢献する。
話を抽象論から具体的な問題へ持っていきたい。
少し前まで学校は学級崩壊で騒然としていた。いじめが至るところで問題になった。「友だちをいじめてはいけない」、「授業中に騒いではいけない」と簡単に割り切って、生徒をしかることは容易にできる。けれども、こんな決まり文句を並べて表面的な対策を立てるだけでは、学校教育の根本的なところに存在する問題は残ったままになる。教育が本来目指している役割を果たすことはできない。
社会に出れば、1人ひとりが苛烈な生存競争にさらされる。国内における競争だけではなく、現在のグローバル化された世界では、国際的な情け容赦のない競争がある。そのような社会でただ単に生き延びるだけではなく、至るところに存在する、社会の不備を改善できるような大人を作り上げることが、教育に課せられた使命になる。既存の知識を教えるだけでは極めて片手落ちだ。そのような教育を受けた人間は、受け身の能力を発揮できても社会を進歩させられない。
どのような環境下に置かれても自ら考えて行動し、問題を発見すると同時に、問題に柔軟に対応できる人間を作る教育が必要だ。問題の解決法を割り出すことができる、たくましい人間にとっては、逆境に置かれることは喜びにつながる。挑戦できるテーマが、周囲にいくらでも転がっているからだ。一つひとつの問題を解決するたびに、その人間は多くのことを学び、自らを成長させる。ここまでくれば、教育は他者によって与えられるものではなく、自らが自らに課すものになる(「天才を育てる楽しみ」)。
日本の教育は、それとは反対の方向へ動いているのではないだろうか?日本の社会では、何かがあるとすぐに大人が子供達の間に割り込んでくる。大人の価値判断で問題を解決し、子供達に従うことだけを求めたのでは、子供達は自己の確立をできない。
何かというとすぐにキレル生徒がいる。少しでもいじめに会うと、世界の終末が来たとでもいうように落ちこんでしまう生徒もいる。ストレスに耐え、自ら問題の解決を目指す人間にするための教育が、なされていない。他人とぶつかりあった時に、ベストではなくてもベターな方向で問題を解決できる、気力と柔軟性を持った人間を社会は育てていない。
何か事があるたびに、校則だ、規制だ、規則だとやっているのが、現在の日本だ。子供達ばかりではなく、教師までもが完璧に管理される体制ができてしまった。もっとも、このような傾向は今に始まったことではなく、日本人の精神に昔から宿っている問題だ。
以前、M&Aやリストラが大規模に進められた時に、想定外の不遇に遭遇した多くの会社員が、ストレスを感じた。そして、自殺者が大勢出た。金融危機真っ盛りの現在も似たような状況になってきた(注意:2008年時点での記述)。一般庶民は言うに及ばず、エリート官僚や経済人もちょっとした挫折によってすぐに自殺をしてしまう。精神的にとてももろい。自分が閉じこもっていた枠の外へはみ出ると、それだけで自殺をしてしまう。今まで生きてきた小さな世界から1人で飛び出し、全く違う世界を自ら切り開いていこう、などと考える強い意志を持っていない。
大脳新皮質の機能がまだ形成過程にある子供には、大人よりももっと大きな発展能力がある。知識を吸収する能力だけではなく、自分を変える能力も大人よりも桁はずれに大きい。子供を過保護に扱う大人は、一見子供を大事にしているように見える。実際には、子供の能力を軽視し、大人の基準に基づいた枠を作って、それに子供を閉じ込めるのと同じことをやっている。子供は問題を解決する能力を発揮できず、成長が妨げられてしまう。
子供の能力の高さは、知識の吸収力だけを見てもよく分かる。あれほどたくさんの漢字をすぐに覚えてしまい、複雑な算数・数学を短時間のうちに習得することができる。子供達が学ぶべきことを減らす方向で教育の問題の解決法を探すのは、明らかに見当違いだ。学校の授業時間数を減らすゆとり教育は、間違っていた。これは、子供達の能力が大人と同程度のものと考えなければ、出てこない発想だった。
人間の子供は、知識を吸収すると機能までも変わってしまう、大きな大脳新皮質を持っている。幼少期の子供がもともと持っている、驚くべき知識吸収能力を軽視して、子供の成長を小さく押さえ込んでしまうのが、ゆとり教育だった。大脳新皮質の機能を極大化させるのとは、逆方向の教育になってしまった。このようなことをやっていれば、ここまで発展してきた日本が、今後は衰退することになる。
教育水準を他国と比較すると、学力が明らかに落ちてきたということで、ゆとり教育が見直されている。ゆとり教育を見直すとすれば、どうすればいいのだろうか?教える知識の量を増やすことは当然だが、教え方を変えるという方向へ持っていくことは、さらに重要だ。
自分を変えることについて、子供には大きな能力がある。たった1冊の本を読んで自分を変えることができる。読書だけで、その後の人生を左右する人格が決定され得る。また、小学校や中学校の教師のひとことが、自分の人生を左右するほどの大きな意味を持った、という経験をした大人が少なからずいる。1を聞いて、10も20もの問題解決法を見つける能力を持っている、と言い換えることができる。このような子供の融通無限さを、大人は重視しなければならない。安易な教育をするほうが楽なので、大人の都合で画一的な薄っぺらい教育をすれば、回りまわって社会に損失を与えることになる。子供が持つ大きな能力をどう開花させるのかが、教育改革の重要なポイントになる。
やがて大人になって社会に出る子供達が、未来の社会を作り上げる。教育には未来志向の人間を育てるという、重要な側面がある。教育のこの役割を、どのようにして成就できるのだろうか?
高度経済成長期には、努力をすれば自分も国も豊かになるという夢が、現実のものになることを誰もが実感していた。豊かな人生を可能にする教育ということで、迷いはなかった。高度成長が終わった頃から日本人の人生目標が不明確になってきた。大人達に未来の夢がなくなれば、未来を作る人間を育てる教育の方法論が失われる。大人達が混乱すれば教育を受ける子供達は迷い、学習への意欲をなくしてしまう。
大人達は、今の子供達が大人になった時に、どのような社会を作ってほしいのだろうか?大人達は、どのような理想を掲げて次の世代を教育すればいいのだろうか?これらの質問にきちんと答えることが、とても大事だ。次の世代にどのような社会の進歩を期待しているのかを、はっきりと示すことが、私達の世代の務めになる。
子供は、どのような人間になることを期待されているのかを、知らなければならない。それによって、子供は、自分がどのような夢を持つことができるのかを、自ら考えるようになる。その夢は大人の夢とは異なるかもしれない。その場合は、大人が示した夢を乗り越えるという方向で、自分の人生を展開するようになる。自らの夢を現実のものにするためならば、新しいものを創造する知的活動に労を惜しまなくなる。それによって、過去に蓄積された知識の上に、次の世代が創造した新しい知識が積み上げられるという、文明の摂理が果たされる。
大人達が未来の社会像を明確に描くことができなければ、子供達のやる気を引き出すことは難しい。目的なしで訳も分からずに学び続けることは、誰にとっても困難だ。未来を見つめた教育をやらなければ、次の時代を作る自覚を持った人間は育たない。
例えば、情報化でより自由で豊かな社会を作る、という目標を掲げる。未知の分野への挑戦になるので、独創的な仕事を支えるための基礎的な知識と技術を習得することが、まず必要になる。その仕事にふさわしい心理を兼ね備えることも、大事だ。技術は専制体制の国では国民の抑圧のために使われるので、もろ刃の剣といえる。人間の自由な精神活動の発露のために技術を役立たせるには、自由を守る責任感と義務感を持った人間の育成が、必要になる。
上のような教育に関する自覚を大人達が共有し、未来への道筋を子供達に示す。未来を見通すことができるようになれば、未来の社会の中にいる自分の姿を、子供達は想像できるようになる。その夢へ向かって努力をすれば、個人的にも社会的にも意味のある人生を過ごすことができる。夢は手の届く範囲へ引き寄せられる。前の世代の夢が現実化され、更にその先の夢が提示される。未来は今の子供達のものになる。
学校でワルが何人か集まって1人をいじめると、全員がいじめる側に加担する。積極的に加担をしなくても見て見ぬふりをする。いじめられる生徒の側に立って、ワルに対峙する友達はまず出てこない。子供だけではない。大人の世界でも大勢に流されることを好む者が多い。正しいと思うことを1人になっても主張し続ける人間は、余りいない。会社でもしばしば大人のいじめがあるが、弱い側の味方をする人間は出てこないのが普通だ。
同質性を好む人々によって誘導される人間の画一化は、今までの歴史を見ただけでも、とても危険なことが分かる。社会全体のバランスが取れなくなってしまう。社会がワッと間違った方向へ走り始めると、止める人間は出てこない。皆がいっせいに崩壊へ向かってつっ走る。第2次世界大戦での日本がそうだった。
多くの日本人には、個の確立が十分にできていないように見える。個が確立されないような教育が、積極的になされてきた、と言ったほうがいいかも知れない。同質性が絶対的な規範になると、異質性は積極的に拒否される。集団の構成員全員が一糸乱れずに行動するのを善と考え、異なる行動を取る者を排除する。
このような人間を作る教育は、もう止めたほうがいい。グローバル化された世界では、異質で多様な人間達が身近に住んでいる。そのような生活環境においては、生きるために誰とでも協力することが必要になる。共生関係を機能させるために、自分が異質な人間を認めると同時に、異質な人間に自分を認めてもらわなければならない。異質が多様性を生み出し、多様性が大きなチャンスを生み出すことを明確に理解すれば、異質な人間との接触は喜びになる。
日本では今、教育を含めた社会の至るところが行きづまっている。これは大きなチャンスだ。全てがうまくいっていると、誰もが現状に満足して未来へ踏み出すような改革を考えない。未来へ向かって日本を変えるための大きなチャンスを、逃がさないようにしたい。