海外人間模様(第2部)
Essay 38
付き合った外国人の素顔

2013年11月21日(修正2014年1月3日)
大いなるボス・海賊ホプキンス

2番目の大学で仕事をしていたときに、ホプキンス教授が上司になった。

その頃、長崎からホプキンス研究室へ、木本さんという医者が研究に来ていた。彼は、ホプキンスに「海賊」というあだ名をつけた。私たちは、2人だけのときに、よく「海賊ホプキンス」という呼び名でホプキンスを話題に上げた。

ホプキンスの先祖が、イギリスあるいはオーストラリアの海賊だったというわけではない。ホプキンス・ファミリーは、オーストラリアの名門ファミリーなのだ。父は、オーストラリア医学界の大ボスだった。2人の弟は連邦議員で、特にすぐ下の弟は、労働党が政権を取っていたときに、外務大臣や財務大臣を努め、首相候補に名前があがっていた。

ホプキンスを海賊と呼んだ理由は、見かけが怖いからだ。身長は2メートルに近く、天井が高いオーストラリアの建物の中にいても、ホプキンスの前では天井がとても低く見えた。日本へ来ると、小さいベッドしかないホテルには泊まらず、旅館で布団を2枚つないで寝るような人だ。上まぶたがややたれているので、目つきはゴルゴ13(!)。頭にはブロンドの髪が渦を巻いていた。

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何かちょっとでも気に食わないことがあると、研究室員をいつも「ブルシット(バカ)!」と怒鳴りつけていた。私は、オーストラリア政府の医学研究基金から、自分でグラント(研究費+生活費)を取っていたので、まだよかった。海賊で政治家のホプキンスが、どこかから集めてくる金で雇われていた他の研究者、技官それに実験助手は、いつも戦々恐々という有様だった。一瞬も休まずにホプキンスの顔色をうかがっていて、ホプキンスが何かを言う前に気持を先取りし、ホプキンスの希望どおりのことをやろうとしていた。

名門ファミリー出身のホプキンス。そして医者で教授、その上牧場主でもある。オーストラリアの上流階級の夢は、最後に牧場主になることだ。ホプキンスの社会的地位は、まさに神様と同じだった。

こんな立場にいると、自己中心的になってしまうのが、弱い人間の自然な成り行きだ。自分の目的を達成するために、平気で他人を踏みつけにするので、敵が多かった。私たち家族の行きつけのクリニックの医者まで、「ホプキンスは、誰でも彼でも人間とは思わずに平気で利用し、踏みつけるので大嫌いだ」と私に言う始末だった。

けれでも、仕事の面ではやり手だった。金集めが得意なので、研究室のスタッフの数は、大学院生まで入れて60人もいた。その州都で一番大きい病院2つの免疫学的な臨床検査試験を、一手に引き受けていた。ここからの収入も並みではなかった。彼は、研究成果でも世界的に認められていて(悪名のほうも世界的に有名だったが)、自己免疫性糖尿病の診断に、ホプキンスが作った国際基準が取り入れられている。

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そんなホプキンスが、私の長男が生まれて間もなく、はるか高みから私を見下ろしながら、低い声で言った。
「ジュン、お前の息子をスコッチ・カレッジに入れなさい」

ホプキンスにこんなことを言われるなんて、本来ならば私は跳び上がって喜ぶべきなのだ。

オーストラリアには英国国教会系の私立校がたくさんある。カトリック系の学校は、どの民族由来の生徒でもどんどん入学させるが、英国国教会系の私立校は、非イギリス系の家庭の子には、いろいろな理屈をつけてなかなか入学させない。その中でも、スコッチ・カレッジは最高のエリート校なのだ。ここを出て、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学へ留学するのが、オーストラりアの超エリートがたどる人生の道だ。イギリスから帰国すると、教育・政治・行政・経済分野のトップになる道が開けている。

私の子供にイギリス系の血は入っていないが、超権力者ホプキンスが手を回してくれれば、間違いなくスコッチ・カレッジに入学できた。ところが、そんなエリート・コースは私には興味がなかった。ホプキンスの好意を否定した形になった。ホプキンスは、私の意向を察してがっかりした(怒った?)ことだろう。

個性的な近所のオーストラリア人たち

その街の郊外に住んでいたときの左の隣人は、ジョンだった。ジョンは、前に飼っていた犬モンタ( エッセイ11 1415)のけんか相手だった。モンタが表で吠えると、「こんなうるさい犬は区役所へ訴えてやる」と文句を言った。裏庭で吠えると、「私の気配を感じて吠えた」と難くせをつけた。モンタも自分が嫌われているのが分かるらしく、ジョンが庭に出るとわざと吠えた。

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そんなジョン。モンタのせいではないだろうが、家を売って別のところへ移ることになった。オーストラリア人は、一生の間に平均して4回家を買い換える。ジョンの説明は、「大学を出る娘が婚約するので、もうこんなプールつきの大きな家に住む必要はない」というものだった。それで、もっと小さい家へ移るとのことだった。
大きいとはいっても、私たちの家の1階分の大きさしかなかった。家を売る大きな理由は経済的な問題だろう、と私たち夫婦は想像した。しかし、メンツを大事にするオーストラリア人は、金銭に問題があってもそれを決して認めない。

ジョンは25万ドルで家を売りに出した。家が売れたならば、もっと安い小さい家へ移るのだ。家の買い換えのときに少しでも利益を上げ、いろいろなローンを返済していくのが、オーストラリア人の家計のやりくりの仕方だ。少しでも高く売れるようにと、ジョンは自分で家の内装を新しくし、またペンキ塗りもした。家をとてもよくみがき上げた。前庭の芝やバラも完璧に手入れした。

ジョンは、家まわりの仕事はなんでもできた。そのおかげで、モンタの問題は抜きにして、庭仕事のことなどをいろいろと教えてもらった。家は、ジョンの希望通りの価格で売れた。

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右側のフォード家には子供が2人いた。下の子は男の子で名はサムエル。当時小学4年生だった。

私たちが引っ越してすぐに、駐車場にいた私に挨拶に来た。

人見知りを全くせず、天しんらんまんだった。自分の好きなことを好きなようにやる。朝早く、私たちの家の庭で、パジャマのままで走り回っていたので、何をしているのかとたずねたら、ガを追いかけているとのことだった。フェンスの上に登って、「ハロー」とよく呼びかけてきた。

サムエルの家にはゲーム機のセガ・サターンがあった。けれども、引っ越したばかりの私たちの家のプレイ・ステーションにとても興味を示し、朝駆け、昼駆け、夕駆けをするようになった。私の子供たちが家にいてもいなくても、おかまいなしだった。プレステをやらせてくれと来る。まだゆっくり寝ていたいと思う日曜の朝も、のべつくまなくやって来た。

妻は怒ってしまった。サムエルがドアのベルを鳴らしても応えないでいると、何分でも押し続けるばかりではなかった。ドアをドンドンと続けざまにたたいた。それでも応えないでいると、1、2時間後にまたやって来た。小さいのにとても執拗かつ強引だった。子供たちはそれをとてもいやがった。

ある日、長男が外から中が見える居間に坐っていたときに、サムエルがやって来た。サムエルがいくらベルを鳴らしても、いくらドアをたたいても、長男はじっと無視し続けた。大変な忍耐だ!このあと、やっとサムエルの急襲がなくなった。

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フォード家のもう1人の子は、エルイーズという名の女の子。中学1年生(オーストラリアではprimary school第7学年)だった。他人ごとながら、こんなにふくらんで大丈夫だろうか、と心配になるくらいに見る間に太った。

このエルイーズが、サムエルの面倒をとてもよくみた。公園に行くために通りを渡るときには、必ず自分といっしょでなければ渡らせない。おもちゃを遊び場に置いて、サムエルがちょっと遠くへ行ってしまうと、そのおもちゃを、泥棒がどのようにして見つけ、盗んでしまうのかを、こんこんと言い聞かせた。まるで母親だ。

エルイーズは犬のしつけも厳しくやった。悪いことをするとせっかんを受けるので、犬はエルイーズをとても怖がっていた。おびえているといっても過言ではなかった。表面はおだやかで、妻ともうれしそうにおしゃべりをするエルイーズ。女性は小さい頃からまか不思議な存在だ。

このエルイーズは地元の公立校へ通っていた。あるとき、私たちの家へ来て1つの要望を出した。 学校で、50個の英単語の書き方の試験がある。これらの英単語は既に学校から渡された。あとは家で覚えるだけ。「この試験で単語1つを正しく書けたならば、2セントをもらえませんか?」との要望だった。50個全部を正しく書ければ、1ドルの収入になる。エルイーズは、こういう約束を近所中まわって取っていた。

日本人にはカルチャー・ショックだが、子供に単語を覚えさせるために、学校がこんなことを考えたのだ。結局、エルイーズは、試験が終わっても金を受け取りに来なかった。それだけ、できが悪かったということだろう。

アウシュビッツから生還したやさしい男とその娘

バンダという若い女性がいた。彼女とは、私たちは結婚する前からの友だちだった。とても長い友だちづきあい。でも、私たちの友だち関係は、不思議といえば不思議だった。

私たちが日本に帰ったときに、普段は何も連絡がないのに、「突然」思い出したように、バンダからクリスマス・カードが送られて来ることがあった。再度、オーストラリアに住んだときに、何の前触れもなく、「突然」食事に来ないかという招待を受けた。あるいは、バンダの父が、「突然」子供たちへクリスマス・プレゼントを持って来たりした。そのたびに、私たちはうれしい驚きを感じた。

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バンダの父は、アウシュビッツ強制収容所で奇蹟的に生きのびた。収容者番号が、腕の皮膚に入れ墨で深くほられている。この入れ墨を見て、ナチのジェノサイドを、抽象的な歴史としてではなく実感として、私はとらえることができた。

バンダの父はとても静かで、非現実的なほどにやさしかった。ドイツ人のことも誰のことも、決して責めることがなかった。死のふちをさ迷い歩いた人間のやさしさだった。

彼は過酷な現実から逃げるために、アウシュビッツに住んでいた頃から、この世には存在しない幻を見るようになった。そして、幻は、オーストラリアの生活の中でも、日常的に現われたのだ。 幻は、部屋の至るところに現れた。ただし、それがどのような幻影なのかという具体的なことは、決して話さなかった。幻を具体的に話すことなく、彼は亡くなった。

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バンダはとてもやさしい女性だ。言葉使いがやさしいだけではなく、自分の周囲にいる人が、気持ちよく時間を過ごせるように、いつも気を使っていた。

そしてこんなことがあった。車にはねられて死んだ母カンガルーの腹部の袋に、小さい赤子のカンガルーがいるのを彼女は見つけた。それから、まるで人間の乳飲み子を育てるように、ミルクをやって育児をした。ただし、野生動物だ。ある程度育ててから、原野へ帰すことをことを考えていた。しかし、入れ込みようが半端ではなかった。
彼女は、カンガルーを野生に帰せなかったかもしれない。カンガルーが大きくなる前に私たちは帰国したので、その後のことは分からない。

私たちが2度目の帰国をしてから、まだバンダとは連絡が取れていない。突然に、何らかの接触があることを楽しみにしている。

シニアの女性・ボワジャの恋

次に、シニアのボワジャの話を書いておきたい。最初に出会ったときに、彼女は既に70才台だった。

戦争中に、ポーランド人の彼女は強制的にドイツへ連れて行かれ、ドイツの工場で労働をさせられた。そこで同じポーランド人の男性に出会い、結婚した。

この夫がなかなかダンディーな上に、プレイ・ボーイだった。話がうまく、詩やジョークをよく覚えていて、皆を楽しませた。しかし、愛人を次々と作り、ボワジャは何度も泣かされた。子供ができなかったので、夫のプレイ・ボーイの残り火は死ぬまで灯っていた。私の妻にまで愛敬を振りまいていたのだ。

この夫が亡くなってからは、ボワジャは天蓋孤独になった。戦後2人だけでオーストラリアへ移住し、オーストラリアには親類、縁者は誰もいない。家には犬がいるだけだった。

夫の死後、寂しいボワジャはカジノへしばしば行くようになった。この街のカジノは大きく、アジアからの観光客や、自由時間が十分にある地元の年金生活者で、いつもにぎわっている。ボワジャの社交生活の輪が広がった。広げざるを得なかった、というほうが正確かもしれない。

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私の妻はずっと年上の女性とよく気があい、日本でもそういう友だちを持っていた。いつの間にか、ずっと年上の女性ボワジャの家へしばしば遊びに行くようになった。

ボワジャは良い意味でとても軽い女性だった。悪気の全くない女性。甲高い声で、勝手にしゃべりまくるのが得意だ。話題は、あちらこちらへなんの脈絡もなく自由に跳ぶ。相手が聞いていようがいまいが、おかまいなしだ。ついでに、相手が何を言ってもおかまいなしなのだ。自分の好きな話題を、好きなようにしゃべりまくる。おかげで、まじめに聞いていようとすると、聞いているほうは混乱して精神分裂症になってしまう。ただし、話題が途だえたときに何を話そうかと考える必要がないので、妻や私は、ボワジャに会うのが好きだった。気楽なのだ。

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私たちが訪れるのをいつも大歓迎するボワジャが、その日だけはなぜかちゅうちょした。けれども、女性の誘導尋問はすごい。妻は、ボワジャと電話で話していて、彼女がちゅうちょする理由をすぐに知ってしまった。ボーイ・フレンドが、お昼を食べに来ることになっていたのだ。

それまでつきあっていた、ドイツ人のボーイ・フレンドではなかった。同じポーランド人のヨゼフだった。
ヨゼフは、9年間寝たきりだった妻を介護し続けた。妻とは2年前に死に別れた。ボワジャと同じように子供はいなかった。プレイ・ボーイだった夫、寝たきりだった妻。亡くなって、ある意味で重荷の取れた2人だ。子供のいない2人。そんなところが似た者どうしだった。

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妻は、ボワジャを説得して、2人の昼食の席に同席できることになった、好奇心の強い妻は大喜びだった。帰宅してから、妻は調査の結果を私にしっかりと報告した。

私たちが食事に行っても、ボワジャは酒蔵庫を開けてくれなかった。ところが、ヨゼフのためにいそいそと酒蔵庫を開けると、ラム、ウイスキー、ウオッカなど、なんでも好きなものをヨゼフに選ばせた(亡くなった酒好きの夫が、買ったものかもしれない)。料理も豪華だった。ブタ肉、トリ肉、牛肉、.....。時代と国境を越えて、料理は女が男をつかまえる道具のようだ。

2人の瞳がチカチカと火花を散らすのを、妻は確かに見た。その火花は、若い人たちのものよりも密やかで時間も短かった、と妻は明言した。それでも、火花の質は、若い人たちのものと全く同じだったそうだ。70才台のシニアの熟年の恋の火花を見て、妻はとてもうれしくなった。

ヨゼフは、ボワジャの前の夫によく似ていた。顔かたち、しぐさまで。苦労させられた夫とはいっても、長くいっしょに住んでいたので、思い出が消えることはないのだ。その思い出は、時間が経つにつれて、より良いものになっていく。前の夫に似ている男性に魅力を感じてしまう。

おしゃべりボワジャは、夫が亡くなる前に2人でいっしょにやったダンスが、いかにすばらしかったかを、ヨゼフの前でとくとくとしゃべってしまった。ヨゼフはもう少し気を回して、ボワジャといっしょにカジノへ行くようになってから、カジノをとても好きになりつつある、と言った。

「恋人どうし」をそんなにじゃましては悪い、と私の妻は早々にボワジャの家を引き上げたのだった。

プレイガール・カッシャの結婚

妻は、カッシャに2、3度会った。私は全く会ったことがなかった。私たちは、カッシャの「遠い友だち」ということになる。

カッシャは、妻の妹アンナの友だちなのだ。アンナのディスコへ行く仲間だった。とても友だとはいえない私たち夫婦を、アンナを通して、カッシャがぜひ結婚式に招待したいといってきた。私たちが出席をしぶっていると、カッシャは、アンナに泣きながら脅しをかけたという。和戸川ファミリーって、そんなに人気があるの?カッシャが必死になって、自分の結婚式に招待したいほどの人気?

残念ながら違っていたのだ。カッシャは、自分が招待する客の頭数をそろえたかっただけなのだ。花婿の側の招待客の数と、自分が招待する客の数との間で、バランスを取りたかったのだ。アレッ、どこかで聞いたような話だ。そう、日本ではどこにでもある話だ。ところが、これは日本だけの話ではなく、世界中、どこにでもある話なのだ。

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カッシャに定職はなく、アルバイトで小遣いをかせいでいた。親と同居していたので、生活費はかからなかった。それで、アルバイトで得た金は、自由に遊びに使うことができた。

こんな生活をしていられるのならば、独身のままのほうがいいのでは、と他の人は考えるかもしれない。しかし、女性はやはり女性だ。28才の彼女は、結婚をしたくてしたくてたまらなくなった。それまでにいろいろな男性とつきあった。噂ではプレイ・ガールということになっていたが、結婚相手を慎重に探していただけかもしれない。いいえ、結婚相手を探しながら、人生を楽しんでいた可能性が大きい。

花婿とつきあい始める直前まで、離婚経験のある、両刀使いという噂のある男性と親しくしていた。誰もが人生を一生懸命に生きている。いろいろな噂があるのは仕方がない。ちなみに、オーストラリア人男性の10~20%が、ホモあるいは両刀使いだそうだ。噂だから、この情報が正しいという保障を私にはできない。

新しいボーイ・フレンドにプロポーズされたとき、カッシャはうれしくてうれしくてたまらなくなった。有頂天になってアンナにのろけた。いわく、「彼はハンサム、スマート、やさしい、金持ち(BMWを持っている)、そしてインテリ(コンピューター技師)。ハネムーンはフランスへ行く。結婚したら豪華な家を買う」
でも、これは、カッシャの夢が大分入っている話だった。

「ヘン、結婚したらがっかりするからね」、というのが(ちょっと嫉妬気味の)アンナの感想だった。

事実、ハネムーンはフランスではなかった。観光客がめっきり減ってしまって、大幅なディスカウントを始めたキャセイ・パシフィックを使い、ホテルもずっと安くなった香港へ行くことになった。家は豪華どころか、小さくてとても古い。しかもローンで購入することになった。

男も女も、夢がなければ結婚には踏みきれない。「夢は、2人でそのうちに現実のものにすればいい。しっかりと着実に新しい家庭を築き上げていってもらいたい」というのが、私の感想だった。カッシャに関するこの感想を、妻とアンナに述べた。

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式をあげる教会の参列者の中には、ノータイのカジュアルな格好の人がいた。私は久しぶりにネクタイを締めた。

花嫁と花婿の両方の側からの保証人に先導されて、2人が入り口から入って来た。2人は祭壇の右側に坐った。神父は左側にいた。参列者はたった30人しかいなかったが、とても騒がしかった。神父が怒って参列者をどなりつける、というハプニングがあった。もっとも、花嫁、花婿も、ぺちゃくちゃと遠慮会釈なくおしゃべりをしていた。神父は、本当は、花嫁、花婿をどなりたかったのかもしれない。

アンナによると、そこに出席していた若い男性の大部分が、プレイ・ガールのカッシャの以前のボーイ・フレンドだった。 本当だろうか?カッシャが、花婿とつきあい始めるまで親しくしていた男性は、そこには来ていなかったという情報を、別の情報源から得た。

花婿は典型的なプレイ・ボーイのように見えた。この点で、私と妻の意見が一致した。けれども、参列者の中に、花婿の今までのガール・フレンドがいたのかどうかについては、情報を得ることができなかった。好奇心旺盛な私たち夫婦は、結婚式において、このことが一番残念だった。

サムライ・ルボの家族の日本との強いきづな

最後に登場するのは、私の長年のベスト・フレンドであるチェコ人だ。

私は、以前、チェコで研究生活を送ったことがある。まだ共産党政権の頃だった。そこで、日本が大好きなルボに出会った。学生のルボは柔道を習っていた。私は、ルボから日常生活のアドバイスを受けながら、簡単な日本語や日本文化をルボに教えた。

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私が帰国してから、大学を卒業したルボは、共産党政権下のチェコを逃れてフランスへ亡命した。フランスを選んだ理由は、チェコを旅行していたフランス人の女性に出会い、結婚を約束したためだ。彼女の名前はマーチン。ブルターニュ地方の中心都市レンヌに住んでいた。
ブルターニュ地方は、かつてヨーロッパ西部に広く住んでいた、ケルト族の血と文化を残しているところだ。

マーチンは、ケルト族に関する私の勝手なイメージに合っている女性だ。小柄で丸みを帯びたからだ。気さくでおしゃべり。話し出すと止まらず、相手が聞いていようがいまいが、お構いなしにしゃべりを続ける。上記のボワジャと同じように、会話が止まったときに話題を模索する必要がないので、気楽といえばいえる。けれども、機関銃の弾丸のように飛び出してくる言葉を、ずっと受け止め続けると、かなり疲れてしまう。

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ルボは、レンヌの医療機器販売会社で営業の職を得た。異国でのこの仕事は大変だった。社長から常に圧力を受けながら、勝手が分からないフランス国内を、営業のために飛び回ったのだ。

ルボから来る手紙やEメールには、常に仕事の不満が書かれていた。私の返事は、いつもなぐさめ励ます内容になった。

不満があっても転職をせずに、今年退職した。ところが、積み立てていた退職金の半分を会社(または社長)に取られてしまい、最後の最後まで社長を恨み続けることになった。

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今年の5月に私と妻はレンヌを訪問し、久しぶりに旧友に再会した。

ルボとマーチンは大歓迎してくれ、ブルターニュ地方を隅々まで案内してくれた。レンヌから車で2時間のところにモン・サン=ミシェルがある。現在モン・サン=ミシェルでは、島と陸をつなぐ大がかりな橋の建設中だ。この有名な修道院を訪れたい皆さんは、橋の建設が終わってからにしたほうがいい。

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ルボは今でも柔道を習っていて、3段の腕前だ。一度日本を訪れたことがあり、日本文化の勉強を続けているので、現代日本の社会状況をよく把握している。そんなルボの言葉は、「私はサムライだ。日本人以上に日本人的なサムライだ」。

ルボの家族は、ルボ以外にも日本と密接につながっている。

ルボのおいが、日本人女性と結婚したのだ。このおいはITの会社を起業し、本社はチェコにあるが、東京に支社を持っている。日本と数奇な運命で結ばれているルボの家族。世界は、このようにして次第に小さくなっていく。

<和戸川 純>

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