6000年前頃から紀元が変わる直前まで、約4000年の間、エジプトで独自の文明が花開いた。異なる宗教や民族に寛容だった多神教の古代エジプトは、その寛容さのゆえに他民族による支配を許してしまった。紀元が変わる頃からイラクのアッシリア、ペルシアのアケメネス、ギリシアのマケドニア、ローマ帝国、イスラム帝国などによって次々に支配され、古代エジプト文明は消滅した。高度な建築技術ばかりか、独自の言語も歴史の闇の中に葬られた。異民族による支配がなかったならば、古代エジプトの文化と技術が発展し、現在の世界に大きな影響を与えていると思われる。
断絶した文明の常として多くの謎が残ったままになった。現存する最古の神殿は5000年以上前に、最古のピラミッドは約4700年前に建造された。1個が2.5~7トンの切り石を230万個積み上げた、高さ147mのクフ王のピラミッドが、ピラミッドの中で最も大きい。このピラミッドが建造されたのは4500年前だった。ピラミッドはナイル川河口のカイロ周辺にしか存在しない。中流のアスワンやルクソールなどでは、墓は岩山に掘られたり(王家の谷)、広壮な神殿として造営された。
ピラミッドの材料の石灰岩は近くの採石場から切り出されたが、花崗岩は上流のアスワンから運ばれたといわれる。ところが、アスワンからカイロまでのナイル川の航行距離は、1000km近くに達する(上の地図を参照)。
アスワンとカイロの間の距離が長かっただけではなく、エドフとルクソールの間に高低差が6~10mの急流があった。現在はエスナの水門が設けられていて、上流の船をスムースに下流の水面へ下ろしている。水門がなかった時代に、重い花崗岩を乗せた船を操ってこの急流を乗り越えることは、ほとんど不可能だったのではないか?
大量の重い花崗岩を運んだ方法は謎だが、それよりもピラミッドがナイル川河口付近にしか作られなかった理由が、判然としない。建造方法にはいろいろな説がある。巨大な重い石を大量に積み上げる方法としては、どの説にも説得力がない。
ルクソールのナイル川西岸にある王家の谷で、3600年前頃からおよそ500年の間に、ファラオや王族の岩窟墓群が建造された。600以上の墓があるといわれるが、発掘されたのは60件ほどだ。
ピラミッドや岩山に長さ100~200メートルの細い曲がった地下通路が作られ、行き止まりに墓室が配置された。外光は通路の入り口付近にしか届かないので、人工的な光がなければ、掘削やミイラの入棺、壁画の描画などの作業は不可能だった。しかし、松明やローソクから出る煤は壁から全く検出されない。煙を出さない光源として何が使われたのだろうか?
ファラオや王族・貴族などの統治者の墓のサイズは、統治した年数によって決められた。ツタンカーメンの統治期間は8年と短かく、王家の谷にある彼の墓は小さい。発見者のイギリス人考古学者ハワード・カーターは、エジプトの英雄になった。王家の谷の近くにあるカーターの家が、観光名所になっている。しかし、ガイドの説明を聞き墓を見て疑念が生じた。墓に最初に入ったのは3人のエジプト人だったが、3人は通路に淀んでいた「毒ガス」を吸って死んでしまった。その直後にカーターが入ったが、「毒ガス」の影響を受けなかった。下へ続く細くて長い通路と墓室に「毒ガス」が充満していたならば、巨大な排気ファンを設置しない限り「毒ガス」は消えない。カーターが口封じのために3人のエジプト人を殺したのではないか?他のツアー参加者も私と同じ疑念を抱いた。
HISの添乗員は若くてかわいい女性だったが、ただかわいいだけではないことが、犬との接触で示された。王家の谷の石の椅子に座ったツアー参加者の前で、エジプト人ガイドが説明をしていたときのことだった。大型の野良犬が、右側からガイドのほうへ歩いてきた。ガイドが犬嫌いなことを知っていた添乗員が、まさかの行動に出た。彼女はガイドへ近づいてくる犬の眼前で犬に背を向けた。まるで自分の背で犬を押しやるように、犬と同じ速さで歩きながら後ずさりした。気圧された犬がガイドから十分に離れるまで、添乗員は同じ姿勢で歩き続けた。彼女はプロの添乗員としてガッツがあることを示したが、彼女の行動は自分を危険に陥れる行動だった。無視すれば何もしない犬だが、自分の行動を規制されたり驚かされたりすると、嚙むことがある。
王妃の谷は王家の谷から約1.5km離れている。ファラオの王妃や王子、王女が埋葬されている。ラムセス2世の妃であるネフェルタリの墓があり、最も美しい墓といわれるが、修復工事のために見学できなかった。ハトシェプスト女王葬祭殿は、約3500年前にエジプト初の女王ハトシェプストによって建造された。宇宙の秩序を司る太陽神アメンラーを祀る葬祭殿で、ファラオの葬祭や礼拝に使用した。
日本も建設を支援した大エジプト博物館は、2025年7月に正式オープンする予定だが、5月に全館の見学が可能だった。この広大な博物館はギザにある。ツタンカーメンの黄金のマスク(撮影禁止)やロゼッタストーンのレプリカなどは、カイロの中心部にある古い考古学博物館に展示されている。現在のエジプト人はアラビア語を使っていて、古代エジプト文字のヒエログリフ(神聖文字:象形文字)とデモティック(民衆文字)は忘れられた言語になった。古代エジプト語に光が当てられたのは、ロゼッタストーンがナポレオンの軍隊によって発見されてからだった。ヒエログリフ、デモティック、それにギリシア語の3つの文字で同一の文章が刻まれていたことが、古代エジプト語の解明を助けた。ロゼッタストーンが多くの手掛かりを与えたが、多くの古代文字やそれらの文字の発音が、まだ未解明のままだ。
ファラオによって居場所と食事を与えられ、人の完全な庇護下で生きるようになった犬がバセンジーで、バセンジーは初めて家畜化された犬といわれる(「バセンジーがやって来た」)。古代エジプト王朝の没落とともにバセンジーはエジプトからいなくなったが、中央アフリカやコンゴで生き延びていた。私がそのバセンジーを飼っていて、今回の旅の主要な目的は、バセンジーのルーツを壁画で確認することだった。
エジプトの輸出の主役は石油・天然ガスだが、湾岸諸国ほどには大量に産出していない。主要な外貨収入源は、在外エジプト人からの送金、観光客収入、スエズ運河通行料の3つになる。以下は2024年の統計。
スエズ運河からの収入減が、エジプト経済に深刻な打撃を与えている。平均月収は2022年に219 米ドル(約2万8000円)だったが、2023年には163 米ドル(約2万2000円)に減少した。2022年以降にエジプト・ポンド(EP)が繰り返し切り下げられ、35%余り下落した。収入減と高インフレが同時に進行している。国外から送金を受けているエジプト人は余裕のある生活を送れるが、他の多くの人たちの生活は困難だ。困窮しているエジプト人が多いという現実に、観光客は否応なく直面する。みやげ物店は、切り下がり続けている自国通貨よりも米ドルでの支払いを好む。EPが値下がりしていることもあり、地元の人が行くスーパーマーケットの棚に並んでいる全商品が、外国人にはとても安く感じられる。
観光地にはみやげ物を押し売りする人たちがたむろしていて、観光客の行く手をさえぎり、まっすぐ歩くこともままならない。「これ1ドル、これ3ドル、かわいい、山本山、ニーハオ」などと言いながら、スカーフのような小物を押し付けてくる。若い父親が5~6才の息子に「そんな売り方じゃだめだ(と言ったと思う)」と厳しくせっかんしている場面に遭遇した。ツアー参加者の女性に物売りの男の子が「チャイニーズ?」と聞いたが、中国人と間違われて不愉快だったことが、女性の表情に現れた。それを敏感に察知した男の子が「ソリー、ジャパニーズ」とすぐに謝った。川面を進んでいるクルーズ船にボートをぴたっと付け、乗客に物売りをする男達がいる。壁画の前に陣取った人が指さす方向へカメラを向けると、ガイドをしたという口実にされ、小銭をせびられる。トイレの入り口に座っている係員は、トイレ使用料として20~30EP(60~90円)を要求する。公共トイレにはほぼ紙がないので、ポケットティッシューを忘れずに持っていきたい。
私は、海外旅行ではATMで現金を引き出すことが多いが、出発前にネット検索で心配な情報を得た。「エジプトでATMを使うと、時々カードが戻ってこないことがある」。エジプト到着後に添乗員が両替についてしばしば助言したが、ATMでの現金引き出しには全くふれなかった。そこで、現地人ガイドに日本で得た知識について話した。ガイドの答えは驚くべきものだった。「時々戻らないのではなく、しばしば戻ってきません」。ただし、ATMの安全な使い方がある。三菱UFJや三井住友などの大手銀行はやっていないが、セブン銀行や住信SBIネット銀行などが提供している、画面へスマホをタッチさせて現金を引き出すスマホATMがそれだ。エジプトではATMでの現金引き出しにスマホが普通に使われているという。
女性にはバカバカしく思える「男のロマン」が、今回の私の旅行の動機だ。ネットで古代犬バセンジーの壁画彫刻の写真を見つけられるが、その壁画がエジプトのどの神殿にあるのか分からない(「バセンジーがやって来た」)。めぐりめぐって家族の一員になった、ラッキーのルーツを示す壁画をエジプトで見つけたい!
ラッキーは高齢(15才)な上に膵炎・肝炎と腎炎の治療を受けているので(「13歳のラッキーが多臓器障害」)、ペットホテルに預けられない。妻が家に残ることになるが、ヨーロッパ系の妻はアラブやモスレムを嫌っており、エジプト旅行には興味がないので、私だけが行くことに賛成した。私はヨーロッパならば一人でどこへでも行くが(「街全体が世界遺産、プラハそぞろ歩き」)、危険が多いアフリカへの一人旅は躊躇してしまう。安全を期して、旅行社が企画した「エジプト絶景縦断8日間」ツアーに参加することにした。
このツアーには21人が参加したが、最も多いのは夫婦で、次いで女性1人、あるいは女性同士2人という組み合わせが目についた。男性同士2人という組み合わせはなく、男性1人は私だけだった。海外への進出力は女性のほうが勝っているという事実が、こんなところに反映される(「日本人女性専門のラブハンター」)。女性は旅する理由として「人と知り合いたい」を挙げることが多く、人探しの旅になる。日本人女性と見ると「愛してる、愛してる」と声をかける外国人男性が多いので、人探しの旅には注意が必要だ。私のように、バセンジー探しの旅をする人は例外ということになる。
5月はまだ暑くなく、快適な旅行をできるとネットに書かれていたので、5月11~18日のツアーを選んだ。参加者の中にTOKYO FASHIONで身を固めた女性がいて、最初は違和感を覚えた(動画3のハトシェプスト女王葬祭殿の前にいる)。見慣れるに従い、TOKYO FASHIONが砂漠に溶け込んで不自然さがなくなった。地球温暖化の影響で「夏の訪れ」が早まり、ルクソールを訪れた日の気温は36度だった。ファッション業界の皆さんは、「40°Cに耐える夏のファッション」というコンセプトで、エジプトでファッションモデルの撮影を行なってはどうだろうか。
ツアーの全行程を通してエジプト人女性のガイドが付いた。彼女はカイロ大学の考古学科と日本語学科を卒業し、ガイドの国家資格を得た。古代エジプトに誇りを持っていることが、言葉の端々から読み取れた。ツアー参加者に古代エジプトの歴史に関する1時間の講義までした。エジプトには非常に多くの神殿があり、壁に描かれたり彫像になった神と王・王妃の数は、数えきれない。どの神殿へ行っても彼女の説明には淀みがなかった。専任のガイド以外に、特定の町だけを担当する助手の男性ガイドが付いた。それだけではない。私服の警察官までも同行した。神殿へ入場する時には、X線手荷物検査装置でバッグの中身を検査をするが、モニターを一生懸命に見ている検査員は少ない。表向きはセキュリティにとても厳しいが、適当に手抜きをしている。
成田でのチェックインに時間がかかり、行列していた人達から「これがエジプト時間か」というあきらめの言葉が出た。その印象がエジプトで変わった。上記の女性ガイドの時間管理は分単位で厳しく、バスの手配は極めて正確だった。見学を終えて参加者が集合場所に集まる直前のタイミングで、バスが停留所に着いた。エジプト人がピラミッドを建造し、土地や星を測量し、医療を発達させ、暦を作り、パピレスや神殿の壁に記録を書いていた頃、日本人はまだ石器や漆器を使う縄文時代にいた。高度な文明を築いた古代エジプト人の片鱗を、現在のエジプト人にうかがえる。
ガイドが、通りでぼーっとしている年寄りに何度も小銭を握らせた。金に余裕がある人が、寄付などで慈善を行うことがイスラム教では求められている。このガイドは信用のおけるみやげ物店へツアー客を連れて行くばかりか、自らもみやげ物の販売を行なう。イスラム教が商人の宗教であることを思い出させた。
カイロからナイル川中流にあるアスワンへ飛行機で飛び、さらにエジプト南端の町アブシンベルへバスで移動した(上の地図を参照)。1950年代から断発的に内戦が起こっているスーダンに近い。バスで移動中に否応なく緊張する国境地帯を見ることになった。国境線は平原に引かれているのでスーダン側からエジプトへ侵入するのは容易だ。多数の避難民がエジプトへ逃げ込んでいる上に、私兵が略奪のために入り込んでいる可能性が大きい。有刺鉄線付きの高い塀で囲まれた建物が多いことが、それを示唆する。小さな家まで厳重に防御されているばかりか、塀で囲まれた小麦畑まである。
ウクライナ戦争が始まった時、ウクライナの安い小麦を輸入していたエジプトが、ウクライナ産の小麦を入手できなくなった。それがきっかけになったと思われるが、ナイル川沿いの広大な地域で小麦畑の造成が進んでいる(動画6)。表層を覆う砂漠の砂がかき集められ、小さな山状に積み上げられている。小麦の作付けがまだ始まっていない土地が多いが、これだけ広大な土地に小麦が作付けされれば、自給が保証されるだけではない。エジプトは世界有数の小麦輸出国になりそうだ。
ナイル川本流の上流にスーダン、支流の上流にエチオピアがあり、両国ともダムを建設中だ。エジプトにとってはナイル川が生命線なので、水の流れを支配しようとする両国と激しい対立が続いている。エジプトの南端にあるダムでの警戒が厳しい。エジプト最大のアスワン・ハイ・ダム周辺の撮影は禁止されている。この巨大なダムはソビエト連邦の支援を受けて、1960年から10年かけて建設された。これによって治水能力が大幅に向上したが、下流にワニがいなくなるなどの生態系への悪影響が認められる。
アブシンベル神殿は、約3300年前にラムセス2世によって建造された岩窟神殿で、神殿建築の代表作の一つといわれる。ラムセス2世の首都はルクソールだったが(地図、動画10)、南方の領土の支配を確実にするために、エジプト南方のアブシンベルを神殿建造の地に選んだ。アスワン・ハイ・ダムの建設によって、ダムの上流に人造湖のナセル湖が生まれた。アブシンベル神殿は水没の危機に瀕したが、国際的な協力によって現在の高所の位置に移築された。
大神殿は、世界を創造し太陽の運行を司る太陽神ラーを祀っている。8人の妃のうちで最も愛した、王妃ネフェルタリのためにラムセス2世が建造した小神殿は、愛と美の女神ハトホルを祀っている。大神殿の入り口にある4体の像は、左から順に青年期から老年期までのラムセス2世で、内部の壁には戦いの様子などが描かれている。小神殿の入り口に立つ6体の像のうちの4体は王で、2体はネフェルタリだ。これらの神殿でラムセス2世は神格化されている。
アスワン周辺の主要産業は農業で、従事している農民にはアフリカ系ヌビア人が多い。アフリカ大陸の北東端に位置するエジプトは、アフリカの黒人文明の影響を受けた。ナイル川中流のスーダンで栄えたヌビア人が北上して力を得、ファラオの地位を獲得したことがある。現在、ヌビア人はナイル川西岸の町に多く住んでいて、アスワン地方では町の人口の半分を占める。
ガイドはエジプト人とヌビア人の違いを繰り返し強調した。かつてヌビア文明の影響を強く受けたエジプトだが、彼女によると、ヌビア人はエジプト人とは人種的にも文化的にも全く異なる民族で、ヌビア人の言葉はたった一つも理解できない。エジプト人とヌビア人は混住しているので、彼女の言うことは疑わしい。しかし、エジプト人として強烈な自意識と誇りをもっていることだけは、はっきりとうかがえた。
ギリシア・マケドニア王国のアレクサンドロス大王によって、紀元前332年に地中海沿岸にアレクサンドリアが建設された。この町は古代エジプト王朝の最後の首都として繁栄した。この時代に、アスワン近郊のフィラエ島に、ギリシア人の指導の下に豊穣の女神イシスを祀るイシス神殿が建築された。古代エジプトの文明が、異民族の支配によって消滅させられる過程における建造物として、大きな意味を持つ。
コムオンボ神殿の右側は豊穣神であるワニの神セベクに捧げられ、左側は王権の守護神であるハヤブサの神ハロエリスに捧げられている。近くのワニの博物館にミイラのワニが展示されている。ハロエリスは治癒神ともされ、多様な手術用具と施術の様子が、神殿の壁画に彫られている。この神殿で、当時の世界における最先端の治療が行われていた。
太陽暦は6000年以上前に古代エジプトで発案された。ナイル川の氾濫を利用した灌漑農業のために、季節の変化を正確に知る必要があったことが、太陽暦を導入した理由だった。コムオンボ神殿は紀元前332年から建設された神殿で、比較的新しいが、ここで世界最古のカレンダーを見ることができる。
古代エジプト王朝の没落と同時に、バセンジーはエジプトから消えたといわれる。ガイドにバセンジーを知っているかどうかを尋ねたが、驚いたことに彼女はバセンジーという犬種を全く知らなかった。バセンジーの特徴をいくら話しても「そんな犬の話は聞いたことがありません」と答えた。日本人でも知っているバセンジーを、エジプトの考古学専門家が知らないということを、どう理解すればいいのだろうか?彼女は野良犬をとても怖がっていたので、犬関連の知識を記憶から無意識的に消去してしまった可能性がある。
エジプトでは野良犬と野良猫がとても多く、人々の生活圏に入り込んでいる。付かず離れずの微妙な距離を保ちながら、人と動物が共存している。レストランでは残飯をこれらの動物に与え、水の入った皿を通りに置いている。暑い日には犬に水をかけるなど、暑さ対策までやっている。
徘徊しているたくさんの野良犬の中に、バセンジーの遺伝子を少しでも持っている犬がいるかもしれない、という淡い期待を私は抱いていた。残念ながら、丸い尾と立った耳を持つ短毛で細身の犬を見かけることはなかった。古代エジプト王朝が没落したのは約2000年前なので、他犬種と交雑があったとしても、バセンジーの遺伝子は現在までに希釈されてしまったと思われる。
エジプトで壁画や彫像を見ているうちに、「バセンジーの謎」が更に膨らんでしまった。ミイラ作りの神である黒いアヌビス神が至る所に描かれていて、彫像にもなっている。太い尾がだらっと下がったところが、バセンジーとは異なる(動画4)。アヌビス以外の犬も壁に描かれているが、それらの犬の尾も下がっている。尾が丸まっている犬種にチズムがいるが、壁画でチズムを見つけることはできなかった。チズムはバセンジーよりも細身で、バセンジーと同じように古い犬種といわれる。ファラオによって猟犬として使われた、短毛で細身の犬としてファラオ・ハウンドやサルーキがいるが、これらはチズムよりも新しい犬種だ。
バセンジーはファラオに愛され家畜化されたが、その犬が存在した痕跡がなかなか見つからないのはなぜだろうか?飼育されていた頭数が少なかったばかりか、宗教的な儀式で使われる犬ではなかったことが、その理由として考えられる。バセンジーの誕生地はサハラ砂漠中央部の丘陵地帯タッシリ・ナジェールなので、乾燥化が比較的速く進んだサハラ東部への移動は、早い時期に困難になったと思われる(「サバンナで生まれた人・犬運命共同体」)。
太陽崇拝が影響してナイル川の東側が生命の地と考えられ、人々の居住地になった。砂漠化が進んだ太陽が沈む西側は死の地とされ、ピラミッドなどの墓が建設されたが、人々が住むことはなかった。サハラからナイル川へたどり着いたバンセンジーがいたとしても、バセンジーが川を泳いで渡ることはなかった(「古代犬の優雅な現代生活」)。ナイル川の西側で人々に捕獲され、東側へ連れていかれたバセンジーがいたかもしれないが、その数は少なかったと思われる。
サハラの南縁部にはかつて水を満々とたたえたチャド湖があり、乾燥化が遅れた南への移動は容易だった。バセンジーは中央アフリカやコンゴ北部へ生息地を広げた。それらの地域の住民が、バセンジーを連れて古代エジプト王朝を訪問したという説がある。それが事実としても、多数のバセンジーがエジプトに住むという状況は現出しなかったはずだ。数が少なく純粋なペットとして飼われていたのならば、今に残る痕跡をなかなか見つけられないことは、容易に理解できる。
生前の世界よりも死後の世界のほうが大事だったエジプト人は、死後の世界で生きるためにミイラを作り、壮大な神殿を建造した。約6000年前から紀元が変わる頃まで栄えた古代エジプトだったが、異民族に支配されてエジプト文明は消滅した。紀元前30年頃からギリシア語系統のコプト・エジプト語が使われるようになった。
7世紀以降にイスラム帝国によって支配されたエジプトは、イスラム化した。エジプト人の約90%がイスラム教徒になり、言葉はアラビア語に統一された。キリスト教やイスラム教は一神教で多神教は排除される。特にイスラム教では、絵や彫像を拝む偶像崇拝が厳しく禁じられる。スフィンクスを含めて多くの彫像の顔に損傷があるが、これは征服者による仕業と思われる。しかし、エジプト人ガイドは征服者によって削られたとは言わず、風雨や陽光、あるいは地震などの自然要因が原因になった損傷と思われる、と繰り返し説明した。カイロ周辺では2000年ほど前に大地震があったが、倒壊した彫像の顔だけが損傷を受けたとは考えにくい。
3600年前から500年ほどの間、エジプトの首都として栄えた町テーベが、現在のルクソールだ。太陽が昇るナイル川東岸に神々を祀る神殿、西岸に墳墓が造られた。約4000年前に、神殿の原型になる建物がルクソール神殿の場所に存在し、その後歴代のファラオによって増改築が重ねられた。ファラオだけではなく、侵略者であるギリシアのマケドニアやキリスト教徒によっても改変が加えられ、その痕跡を見ることができる。入り口の左側に巨大なオベリスクが立っているが、右側に立っていたオベリスクはナポレオンによって持ち去られ、今はコンコルド広場の中央に立っている。他の多くの神殿にもオベリスクが立っていたが、そのほとんどが侵略者によって略奪された。
アブシンベル神殿を建造したラムセス2世や、ツタンカーメン夫妻の彫像がルクソール神殿にある。ツタンカーメンの妻が右腕を夫の背に回しているのを見ると、いろいろな夢想が湧いて出る。
ルクソール神殿から北東へ2.5kmほどのところに、世界最大の神殿建造物といわれるカルナック神殿がある。この神殿はルクソール神殿の主神殿で、4000年以上前に建造が始められ、テーベの守護神であるアメン神が祀られた。アメン神は太陽神と融合し、風や大気の神としても崇拝された。カルナック神殿の敷地内で夜に「音と光のショー」がある。日本語イヤホンガイドを渡されるので、言葉の心配はない。エジプトの歴史の詳細な説明があるので参考になるが、ショー自体はスペクタクルとは言い難い。
日本に滞在したことがある男性の現地人ガイドに聞いた。「日本人はストレス解消のために酒を飲みますが、イスラム教のエジプト人はどうやってストレス解消をするのですか?」。日本人の酒好きをよく知っている彼の答は、「大きな声では言えないけれど、私も他のエジプト人も酒を飲むよ。これは秘密です」。酒を飲んではいけないはずのエジプトで、ビールもワインも醸造されている。建前の裏に本音があるが、建前と本音を使い分けるレストランは少数派だ。ビールを提供するレストランを見つけるのは難しい。そうはいっても熱い!ビールを置いていないレストランでも、ノンアルコールビールを提供していることがあるので、確認したい。
レストランで提供される料理は、イスラム教の教えに従って準備されたハラル料理だ。私はハラル料理を初めて食べたが、特に違和感はなくおいしかった。同席した夫婦が「エジプトのパンは日本のパンよりもおいしい」と言って、朝から晩までパンをたくさん食べていた。「聖なるパンを食べているので幸運が訪れますよ」と、私は冗談を言った。パンが最初に作られた場所はメソポタミアだったが、そこから遠くないエジプトへパンが間もなく伝わったことを想像できる。祈りが込められているだけではなく、パンには長い歴史という味付けがしてある。
イスラム教徒は、夜明け前、昼、午後、日没時、夜の定められた時間に1日に5回、祈ることが義務付けられている。祈りの時間に横にいた現地人ガイドに、「仕事中には祈らなくてもいいのですか?」と聞いた。彼の答は、「あとで時間が空いた時に祈るからいいのです」だった。本当に祈っているのだろうか?
日本人の一般的なイメージでは、イスラム教徒は教義によってがんじがらめに縛られた、窮屈な生活を送っている。ところが、イスラム教はもともとが商人の宗教なので、商業道徳などを教えている意外に柔軟な宗教だ。上の事例のように「建前と本音」を使いわけている。イスラム教徒は妻を4人まで持てるが、経済力のない女性の生活を助けるという意味合いが強い。経済力のある女性は2人目以降の妻にならないし、4人のうちの1人だったとしても、経済力が付けば離婚を選択する。考古学が専門のガイドには経済力があるので、「夫が2人目の妻を欲しいと言ったならば、私は離婚するわ」。