ラッキーは現在3年4ヶ月令(人間の年令に換算するとちょうど30才)。成長は2才くらいで止まり、体重は14キロ前後をキープしている。ちなみにバセンジーのオスの平均体重は、10~11キロなので、ラッキーは大型バセンジーということになる。
成長は止まったが、3才になっても、ワンコ仲間から「成長しましたか?」とよく聞かれる。体長と体重には変化がなくても、筋肉質のからだが大人らしくがっちりとしてきて、成長したように見えるのだろう。
普通のペットショップで売っている服は、細身だが胸幅があり首の長いバセンジーに、合わない。2才の冬に、ネットの専門店から冬用のトレーナーを購入した。1才の冬に買ったのはLサイズだったが、2才の冬にはLLサイズが必要になった。LL以上のサイズはない。ラッキーの成長が止まったことを祈るしかない。
冬には、冬服を着せても寒がりだ。冷たい風が強く吹く日には、いつもは垂直に立てている立派な巻き尾をダランと下げ、肛門を冷風が直撃しないようにしている。その格好がおかしく、愛犬が震えているのに私はつい笑ってしまう。
ラッキーの前に飼った大型犬のモンタは、まるで重戦車だった。オーストラリアに住んでいたときに、「ワンワン」と休みなく吠えたばかりか、散歩では拾い食いを止めなかった。飼い主を完全に無視して自分勝手に右往左往。おかげで、私たちは重戦車に引っ張り回されて青息吐息。見かねた隣人が、「犬は5才になれば落ち着いて扱いやすくなるからね」、となぐさめてくれた。ところが、モンタがある程度落ち着くまでに、10年もかかった。
このエッセイで、「親ばか」として、皆さんの鼻につくほどラッキーの自慢話を展開する。ここで最初の自慢をしておこう。
ラッキーが落ち着くまでに5年はかからなかった。2才くらいから落ち着いてきた。歯止めがかからなかった俊敏な動きに、抑制がかかってきた。今ではワンコ仲間が驚くほどに落ち着いている。ただし例外的な行動がある。そんな問題行動もこれから書くことにする。
落ち着いてきたとはいっても、力がより強くなったので、散歩中に勝手に動かれると、飼い主である私が消耗してしまう。そこで、 交差点などで行動をコントロールしやすくするために、「待て」、「お座り」を教えた。こういう訓練は食べ物を使えば効果的にできる。食事のときに教えると、たった1回で「待て」、「お座り」を憶えてしまった。間違いなく頭がいい。命令通りにできたときには、「Good boy!」とほめる。ラッキーに英語を教えたいわけではない。「いい子!」よりも、「Good boy!」のほうが言葉の響きが強いから使っている。
2才に近くなってから、ラッキーのあごの力が強くなった。私がふざけてラッキーの口を開けさせ、犬歯に触ろうとしても、ラッキーがこばめば口を開けさせることができなくなった。それまでかめなかったウシのひづめの先端のほうまで、かめるようになった。
この頃から、家の中のものをなんでもかむ癖がなくなった。飼い主の足のくさいにおい(ラッキーにはいいにおい!)が付いた靴下にはよくじゃれるが、口にくわえて少し移動させると興味を失ってしまう。ハンティングだけが好みで、獲得した獲物(奥さん)にはえさをやらない人間の男性と同じだ。私たちは、知らない間に移動してしまった靴下探しに苦労している。
かみぐせがなくなったので、警戒心を解いてしまったある日のことだった。私が帰宅したときに玄関に出てきたラッキーが、私の顔を見るだけの簡単な挨拶しかしなかった。普通は、頭・首・背中をなでてもらおうと、からだをすり寄せる。ラッキーは、玄関から入ってすぐ右側にあるベッドルームへ引っ込んで、ベッドの一番遠いところに腹ばいになり、頭を下げた。
そんな態度を少し不審に思ったが、私は、廊下の終わりにある居間へまっすぐに歩いた。そこで惨状を目撃。ラッキーが、留守中にシープスキンをかんだのだ。床一面にヒツジの毛の塊が散乱していた。ラッキーは、スキンがみをすれば叱られることを、120%分かっていた。私は本気になってラッキーを叱った。ラッキーの期待に反しては、飼い主としては申し訳がないからだ。
隙を見ての悪行にこんなこともあった。本物の毛皮がえりに付いたコートを、妻が買ってきた。「獲物だ!」と狩猟本能を刺激されたラッキーが、最初から強い好奇心を示した。妻は注意深くなった。
ある日のこと、帰宅した妻がコートをクローゼットに入れ忘れてしまった。ベッドの横の、花瓶を置いてある背の高いサイドテーブルに乗せたままにした。ラッキーと私は居間にいた。離れた部屋にいたが、大きなチャンスが訪れたことに、ラッキーは疑いもなく気づいた。私と妻が、居間のテーブルの上に英語のテキストを広げて、話を始めた。しばらくして、ソファで寝ていたラッキーがいなくなっているのに気づいた。ベッドルームからなにやら怪しい物音。走っていくとラッキーが毛皮をかんでいた。悪事を働いていたことを百も承知のラッキーは、脱兎のようにベッドルームから逃げ出した。
上に書いた2例は、現在では例外的な悪行になった。物分りがよくなったラッキー。飼い主としては「楽だ。けれどもさびしい」。
散歩に出かける前に首輪とリードを付ける。その作業が、ラッキーにはとても楽しみになった。玄関の靴クローゼットに入れてあるラッキーの首輪を取るために、私がクローゼットへ近づくと、ラッキーはわざわざ玄関に出てくる。頭を下げ尻を上げ、「さあ来い」の姿勢になる。私は首輪を持ってラッキーを追いかける。ラッキーは弾丸のように居間へ逃げ、そこでまたもや「さあ来い」。気分が乗ると、「ウー、ウウー」といううなり声まで上げる。無口なラッキーがたまに発するそんな声を聞くと、私ばかりか家族全員がとてもハッピーになる。
走り回る敏捷なラッキーをつかまえることは、不可能だ。私は賄賂作戦に切り替える。食パンをちぎって賄賂としてラッキーに渡す。その意味を完全に理解しているラッキーは、食パンをもらうとおとなしくなる。首輪を付けさせる。
ラッキーは、妻も一緒に散歩に行くことを望むようになった。 妻が同行することが分かると、とても従順になる。賄賂作戦は必要なくなる。首輪とリードを付けてもらうのももどかしく、ドアーノブを前足で押し下げようとする。妻を絶対的に必要とする愛情散歩の意味を、私たち夫婦は図りかねている。妻がいても散歩のルートには変化がなく、途中のできごとにも違いは何もないのだ。
私と妻が外出の準備をしていても、ラッキーを連れた散歩ではないことを知ると、目に見えてがっかりした態度を取る。 妻が、しばらく一緒に散歩に出かけないでいると、散歩の時間に、妻がどこにいても見えるところに立ち止まって、妻をじっと見つめる。女性を落とすことができる得意のアイコンタクト。この攻撃を受けると、妻は落ち着かなくなる。「ごめん、ごめん」と言って、ラッキーから見えないところへ逃げて行く。
ラッキーは、ラッキーだけを家に残して、私と妻が一緒に外出するのをとても嫌う。そこで、まず妻が先に外に出る。タイミングを見計らって私が出る。そのときに、煮干しを床にばらまき、ラッキーの注意をそちらへ向けるようにしている。
出かけるときに私たちがそれほど気を使っていても、私たちが戻ると、両耳をピタッと頭の後に寝かせて「クーン、クーン」と切ない声を出す。からだをすり寄せてくるラッキーに、いとおしさが増す。「留守にしてご免よ」と声をかけてしまう。
時間的に不規則な英語を教える仕事と、椎間板ヘルニアの気がある妻に代わって、私が最初からラッキーの食事、散歩、その他もろもろの面倒を見ていた。妻いわく「ラッキーはお父さんの子ね」。
ところが、2才頃から、上に書いた散歩のことも含めて、ラッキーと妻の関係に変化が出てきた。「お母さんの子」にもなってしまったのだ。
妻はラッキーを「ララ」と呼ぶ。女性好みのかわいい愛称だ。「ララ」と言ってラッキーを呼び寄せると、ソファーで子供を抱くようにラッキーをひざの上に乗せる。抱かれると心地良いので、ソファーの上では私よりも妻に寄り添うようになった。
妻は、自分が食べている物をラッキーに分け与える。食べ物の磁力が加わったので、ラッキーはさらに妻に付くようになった。妻への甘え方に磨きがかかった。すると、妻はラッキーがさらにかわいくなる。愛の相互作用だ。1人と1頭の関係がより濃密になった。花と緑がいっぱいのベランダのチェアーで、妻に抱かれてウットリしているラッキーと、ラッキーを抱いてウットリしている妻を見るのは、ほほえましい。まるで天国の光景だ。
ラッキーは、妻が食べる物に強い関心を示す。妻がトーストを作り始めると、トースターの前に坐って動かなくなる。「チン」の合図とともに、離れたところにいる妻を呼びに行く。それほどの作業をしても、ラッキーがもらえるのはトーストの耳のところだけだ。妻のトースト作りと、ラッキーのための私の食事作りが同時に進行すると、私のほうが無視されてしまう。
ラッキーが2年7ヶ月令のときに、私たちはニューカレドニアへ4日間の短い旅に出かけた(エッセイ29)。ラッキーをドッグホテルのログワールドに預けた。モンタをドッグホテルに預けたときには、置き去りにして旅行に出かけた私たちに、再会したモンタが怒りの表情を見せた(エッセイ15)。モンタの経験があるので、帰国してから、私たちはラッキーの怒りの表情を見るのが怖かった。ところが、ラッキーの態度はモンタとは異なっていた。ラッキーは、再会した私たちに立ち上がり飛びつき、顔をなめた。
管理をしている女性の話では、ラッキーはいつもピタッと彼女の後に付いていた。彼女は、私たちと同じように「猫のような犬」という印象を持った。ラッキーは、異なる状況への適応能力がモンタよりも明らかに高い。自分に食べ物を与える人には、すぐに順応してしまう。
猫のような犬といえば、家族だけではなく、公園で出会うワンコ仲間の誰にでも、頭やからだをなでることを遠慮なく要求する。からだを接触させたラッキーが、横で犬坐りをすると、犬好きな人の抵抗力が完全になくなってしまう。ラッキーの要求通りになで続けることになる。
甘やかされているラッキーが、家でいやがるものは余りない。花火もかみなりも地震も、ラッキーを動揺させることがない。ただし、苦手なことがある。包丁とぎだ。我が家の包丁とぎ器は、電池で丸い石を回転させる小さいものだ。回転する石に包丁の刃を当てると、金属と石がこすれる歯が浮くような音がする。ラッキーにはこの音が耐えきれない。遠い部屋で寝ていても、私が何をやっているのかを見に来る。私の作業が終わるまで、離れたところから落ち着きなく眺める。
2才の頃から、ラッキーの判断力に磨きがかかってきた。
外では、周囲の状況をよく観察して行動を変える。歩道を歩いているときには、伸びるリードを付けないので、遊べないことを知っている。親友のフィッツやチャチャがラッキーに出会うと、歩道であるにもかかわらず、両犬ともラッキーと遊ぼうとする。しかしラッキーはクールだ。相手にしない。公園へ行って伸びるリードを付けると、途端に遊びのスイッチが入る。
犬ばかりか人間にも強い興味を示し、近づく人を注意深く観察する。好意を持てそうな人ならば近づくが、相性が合いそうもない人の場合は、警戒して後ずさりしてしまう。
インターフォンが鳴ると、宅急便の配達人が玄関へ来ることが分かる。玄関のドアーを開けて対応することになるので、まずラッキーを居間に入れ、居間のドアーを閉めることにしていた。このパターンを理解し、他の部屋にいても、インターフォンが鳴ると自ら進んで居間に入るようになった。誰にでも興味を持つラッキーの本音は、配達人を確認すること。しかし、自分の意志に反してでも、自分が求められていることを実行するようになった。
家に客が来るとまずにおいをかぐ。それが終わると、客が見える範囲内に寝転んで、客を無視するような態度を取る。外とは違って、家に客が来ると犬なのに「猫をかぶる」。
家族の一人ひとりに対する態度が、異なってきた。私や妻が外出から戻るといそいそと出迎える。食事や散歩の世話をしないで、ただからかうだけの息子が戻っても、ソファーから動かなくなった。むだな行動をしないのだ。
居間で、私と妻が小さい声で会話をすることがある。
「いないわ。どこへ行ったのかしら?」
「ベッドルームで寝てるんじゃない」
就寝時に、居間のソファーで寝ているラッキーを残してベッドルームへ行き、ベッドで会話をする。
「向こうでよく寝ているわ。朝まで来なければいいわね」
「来て一緒に寝たら暑くてたまらないよ」
ちなみに、どういうわけか、ラッキーはベッドでは、妻ではなく私にピッタリと寄り添って寝る。
居間とベッドルームの間に2つの部屋がある。ラッキーの注意を引かないように、ラッキーの名前を出さずに小声で話せば、ラッキーは反応しないはずだ。私たちの期待に反して、ラッキーは会話が終わる間もなくすぐに来る。耳も感もあきれるほどにいい。
モンタは、早朝に誰よりも早く起きると、問答無用で自分の意志を貫こうとした。まだ寝ている朝食担当の私に向かって、「ワン、ワン、ワン、ワン」とありったけの声で吠えた。周囲のマンション住民はまだ寝ている。モンタの吠え声で起きてしまう。私はモンタに向かって、「うるさい。静かにしなさい!」とどなった。モンタの声よりも、私のどなり声のほうが近所迷惑だったかもしれない。ところが、私のどなり声などは、モンタにとってはどこ吹く「そよ風」。私が起きて朝食を作りに行くまで、吠えるのを止めなかった。
ラッキーの朝の行動は、モンタとは全く異なる。ラッキーも食い意地が張っているので、起きて朝食を作ることを私に要求する。ところが、吠えないバセンジーらしく声を全く出さない。ベッドから降りると私の横へ来て、冷たい鼻先で私の腕や顔にそっと触れる。お返しに私もラッキーの頭に触れる。これを何回か繰り返しても状況に変化がなければ、私がまだ起きる気にはなっていないことを、ラッキーは理解する。すると、床にスフィンクスの姿勢で腹ばいになり、私が起きるまで黙って待つのだ。
食事の準備中にも、ラッキーの行動に時間の感覚が入る。朝は散歩に出かける犬が多いので、私がラッキーの食事を準備している間は、ベランダで散歩中の犬を見ている。準備が終わる時間を正確に見計らって、私の横へ飛んで来る。
このように、時間の流れに沿ってどう行動すればいいのかを、ラッキーは明確に判断できるようになった。私たちをだますときにも、時間の流れに沿った行動をする。
私が1人で食事をしていたときに、
ラッキーが、ベランダへ通じるガラス戸を前足でひっかいた。その行動は、普通はドアーを開けてもらいたいというサインだ。私はガラス戸へ歩いて行って、それを引き開けた。そのとき、ダイニングテーブルの位置が私の背後になった。戸が開いたのにラッキーはベランダへ出ず、私の後方へサッと下がった。訳が分からないままに振り返って驚いた。ラッキーは、それまで私が坐っていた椅子に前足を乗せ、口を私の魚料理のほうへ伸ばしていたのだ。私は「コラッ!」と叫んだ。同じトリックに妻も引っかかった。
親ばかな2人の反応は、「ラッキーって頭がいいね。ワンコの天才だ!」という喜びに満ちたものになった。
犬の学習能力はとても高いが、人間にだって学習能力がある。同じトリックをラッキーに2~3回使われ、私たちは学習した。それからはラッキーにだまされることがなくなった。それでも、隙があれば、キッチンや居間のテーブルの上にある食べ物を取ることに、ラッキーは挑戦している。
ラッキーの飼い主として自慢話を書いたが、全ての物事に多面性がある。ラッキーの利口さにも、利口であるがゆえの弱点を認めることができる。
周囲の状況を考慮してから判断し行動するので、押しが弱くなってしまうのだ。ラッキーは、可能性を現実化させることの難しさを意識することによって、行動する前にあきらめてしまう。闇雲に「イケイケドンドン」ならば、可能性が小さくても、行動することによってまぐれで成功することがある。けれども、慎重過ぎると全く挑戦しなくなり、まぐれの成功がなくなる。押しが強ければ、食べ物をもっとしばしば分けてもらえるかもしれないが、ラッキーはそれをやらない。
ラッキーのこの弱点は、考え過ぎる人間と同じだ。「犬のふり見て我がふり直せ」ということになる。
犬以上に頭がいい人間は、頭がいいために、犬以上に他人から完全にコントロールされてしまう。
今年初めに、アメリカの住宅街で、10年間も監禁されていた3人の女性が開放された。女性に逃走することは不可能と思わせた、犯人の男のマインドコントロールがあった。こういう極端な事件は例外としても、私たち自身が、日常生活のいろいろな場面で、マインドコントロールされているという現実がある。