Essay 93

無と空(くう)

2026年5月11日

「無」とは何か?

五感で知覚できない世界がある

哲学と宗教の難しい話題を話し合うのが、大好きなグループがある。私はそこに所属している。「無と空(くう)」というテーマをめぐって、議論が沸騰したことがあった。私は、当サイトの宇宙論で「無」をしばしば主要なテーマとして取り上げている(「無の向こうに広がる高次元時空」など)。また拙著「無から湧き出る宇宙」で「無」に真正面から向き合っている。

図1.高次元時空との接点に迫る量子力学
「無」と「有」の境に存在する量子

哲学や科学、それに宗教において、「無」は多様な視点から議論される。私が考える「無」は「見えない有」で、「見える有」のすべてがこの「無」から顕現する、と推論する。この前提に立てば、「無」に関するアイディアはいくらでも湧き出る。 「無の世界」を具体的に述べると、人間の五感(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)で知覚できないばかりか、その姿を想像することさえもできない、高次元時空ということになる。人間が作る観測機器の能力は、すべてが人間の認知能力の限界内にとどまっているので、最先端の観測機器を使っても、「無の高次元時空」を観測することは不可能だ。

それでは、なぜ、認知不能な「無の世界」をわざわざ想定しなければならないのだろうか?常識をわきまえた人ならば、私たちの日常生活に何の影響も与えず、知覚することも想像することもできない、「無の世界」など無視すればいい、と主張するに違いない。「お説ごもっとも」だが、私のウェブサイトに来ていただいたのも何かの縁。少しだけ付き合っていただきたい。

未知の変数が隠れている量子方程式

図2.私たちの宇宙は高次元時空(「無」)の一部
認知能力の外にある一体化した多次元時空

「無」と「有」の世界の関係を異なる言葉で表現すれば、「有の世界」は「無の世界」の「表象」と言える。それならば、目に見える範囲に生じる現象を観測して、間接的に「無の世界」の存在を証明できるはずだ。

目に見える範囲の空間で生じる物理現象は、時間の経過と共にエネルギーが散逸するという特徴を有する。ところが、量子にはエネルギーを失わずに運動し続ける性質があるので、量子の変化を記述するシュレディンガー方程式には、虚数単位が組み込まれている。虚数は、人間が関わることのできない「舞台裏」で、量子がどのように振る舞い、次の瞬間にどこへ行くのかを決定する内部自由度と考えられる。別の言葉で言えば、虚数は「観測される前の可能性の揺らぎ」を示している。

Ψ(x) = A e^(i(kx - ωt))

ψ(x):波動関数、A:振幅(波の大きさ)、e:指数関数(量の増加に関する数学的な記述)、e^:波の位相(振動箇所の位置関係)、i:虚数単位(2乗してー1になる数)、k:波数(単位長さ当りの波の数)、x:位置、ω:角振動数(1秒当りの位相の変化量)、t:時間

図3.量子もつれで物理法則が破たん

量子の状態を表す上の波動関数には、空間的な位置の座標(x、 y、 z)以外に、量子の状態を決定する「隠れた性質(変数)」が必要なことが分かっている。この変数は未知だが、宇宙のあらゆる場所の情報が、瞬時にこの変数に影響を与える(非局所性)と考えなければ、波動関数は成立しない。この非局所性のおかげで、2つの量子が数万光年、あるいは数億光年離れた空間に存在していても、瞬時に同期する「量子もつれ」という現象が生じる(「時空を超える量子ネットワーク 」)。「量子もつれ」は時間も超越する。

以上の論考から、古典物理学では解明できない特質を量子が備えている、と結論することが可能だ。超ひも理論が、その未知の領域へ踏み込む役割を担っている(「無の向こうに広がる高次元時空 」「時空を超える量子ネットワーク 」)。

認識能力の限界への挑戦

図4.多様なひも
ひもの種類

超ひも理論では、量子を振動するひもと規定する。量子であるひもの振動エネルギーと、それが存在する時空の次元の関係を計算すると、時空が10次元(空間9次元+時間1次元)であるときにのみ、関係する方程式が相対性理論と矛盾しない。ローレンツ不変性が保たれるこの次元を、臨界次元と呼ぶ。ローレンツ不変性とは、アインシュタインの特殊相対性理論の根幹をなす概念で、「物理法則は、互いに等速直線運動をしているどの観測者から見ても、同じように表される」という性質のことだ。観測者が止まっていても、超高速のロケットに乗っていても、光の速さや物理の方程式に変化がないことが、ローレンツ不変性の正しさを証明している。

10次元のひもに、結合定数(ひものくっつきやすさ)というもう一つの次元を加えると、時空は11次元になる。この11次元の時空では、1次元のひもが、2次元の膜(メンブラン)が丸まった形になる。数学的に許容される、最大の超対称性を持つ超重力理論も、11次元時空の存在を示唆している。

量子を、私たちが認識できる物理法則の範囲内で解明しようとすると、10次元や11次元という高次元方向へひもが振動していることになる。この高次元方向への振動の仕方が、認知可能な4次元時空における電子やクォークなどの量子の特性を決める、と結論される。

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認識論で厳密に思索すると、ここで決定的に重要な問題が見えてくる。上述のように、最高次元を11次元とした理論の背景には、人間に認知可能な宇宙における、数学や物理学の法則を適用させる、という「鉄則」の存在がある。既知の物理法則や数学方程式が破綻する時空を想定することは、「間違い」と断罪される。たとえば、ローレンツ不変性が破れると、「原因よりも先に結果が起こる」という矛盾が生じる可能性があり、現代物理学ではそのような現象を認めることはない。11次元時空の計算式でも時間の流れは1次元と規定され、多次元時間はあり得ない。 不幸なことに、宇宙を創造した神の位置に人間を置く「人間原理」が、ここに顔を出している。宇宙は、「人間の原理」で動いているわけではない。「人間原理」にとらわれていたのでは、すべてを生み出す「無の世界」の探求に有効なはずの量子力学に、足かせをはめることになる。

2次元以上の時間が作る超構造宇宙

時間を実数ではなく虚数で扱うと、数学的に時間と空間の区別がなくなり、時空構造がより多次元的な構造を持つようになる。量子力学の特徴である「重ね合わせ」を時間に適用すれば、因果の順序が不確定になり、複数の時間経路が同時に進行するような、多次元的な広がりを持つようになる。過去・現在・未来(それ以外の時制があっても不思議ではない)が、時空の多次元構造の中に同時に組み込まれる。

1次元の時間は「線」だが、2次元の時間は「面」になり、3次元の時間は「立体」になる。4次元以上の時間については、私たちは構造を表現する言葉を持たない。多次元の時間は1本の川の流れではなく、網の目状にいろいろな方向へ流れる。この網の目が無限に重なり合うと、「時間が流れる」という3次元空間の常識に基づいた表現は、使えなくなる。

現代物理学では、人間の計算能力を超えてしまうために、「無限」を方程式に組み込むことは否定される。人間の認知能力を超えた時空が存在することは、量子力学によって示唆されるが、そこには「無限」と規定される空間や時間(それ以外の座標があるかもしれない)が存在すると思われる。「無限」は認知能力からは「無」であり、私たちが認識できる宇宙は、この「無限世界」のほんの一部にすぎない。

仏教と量子力学の「無」、類似性と相違点

仏教の「無」は、「何も存在しない」という意味ではなく、あらゆるものが固定的・独立的に存在しているわけではない、という意味を有する。永遠に変わることなく存在するものは何もないという、「存在のあり方」を見つめ直すための言葉だ。思索の根底に量子力学の「無」と共通するものがある。

量子力学の「無」と異なる点は、宗教である仏教では、「無」は感情や執着を否定する手段として用いられることだ。「変わらないものがある」と思い込んだり、「自分」という実体に固執し、「これは絶対にこうあるべきだ」と執着する思い込みが、苦しみを生むと考える。苦悩を生み出す決めつけから解放されるには、「無」によって執着を手放し、心を自由にする必要がある。仏教では苦しみの原因を断つために「無」が必要とされる。

仏教の「無」の核心を2つに分けられる。

  • 無常:形あるものも心の状態も常に変化する。変わらない実体はない。
  • 無我:身体も心も、因果関係の流れの中で一時的にしか存在しない。これが自分だという固定的な自我は存在しない。

「空(くう)」とは何か?

量子力学の「空」は真空、仏教の「空」は縁起の本質

「空(くう)」は、日常生活においては、目に見える物体が存在しない3次元的な広がりで、「空っぽ」ということになる。「無」とは異なり、「空」は何もないことが認知される空間になる。量子力学において「空」に近い概念は「真空」だ。古典的な物理学では「物質がない=空っぽ」だったが、量子力学では、「真空」は「エネルギーが最低の状態」と定義される。何もないように見える空間そのものが、すべての物質を生み出すエネルギーを保持している。このエネルギーは常にゆらいでいて、場の励起によって粒子と反粒子がペアで生まれ、すぐに消える(対生成・対消滅)。対消滅をまぬがれた粒子によって物質(量子)が形成される。

図5.仏教が規定する「空(くう)」 と「無」
仏教の「空」と「無」
哲学・宗教グループのメンバーである仏教徒が、生成AIに作成させた絵

「空(くう)」という概念は、物理学と仏教では異なる事象を指しているが、「無」と同様に思索の根底には共通したものがある。仏教における「空」は、「無(何もない)」ではない。「あらゆるものは、それ自体で存在しているのではなく、無数の原因や条件(縁起)が重なり合って、今の形で見えているに過ぎない」と考える。物事の本質が「空」であるからこそ、現象は変化し続ける。この基本的な概念が、量子を動的に変貌し続けるエネルギーと規定する、量子力学のそれに一致する。

事物は相互反応によって存在している

般若心経における「空(くう)」は、「すべてのものは、それだけで存在しているのではなく、相互依存に依って存在している」という意味を含む。「無」は固定的な存在を否定するが、「空」は物事が因縁によって存在していることを強調する。「無」は苦しみを生む感情を消失させ、「空」は動的な感情の変化を受け入れる。

般若心経の中心的な一節である色即是空(しきそくぜくう)は、「目に見える形あるもの(色)は、固定された実体がない(空)」という象徴的な意味を有する。私たちが「これはこういうものだ」と固執している価値観や、自分自身でさえも、一時的な縁によって存在している過ぎない。固定された 実体がないからこそ、あらゆるものに変化し、成長できる可能性を秘めている、と考えられる。 空即是色(くうそくぜしき)という一節がそれを指摘している。「実体がない(空)からこそ、あらゆる形あるもの(色)として現れることができる」という意味だ。物事の本質が変化し続けることを表す「空」を理解することによって、固定観念が生み出す苦しみから解放される、と諭す。

論理が飛躍し過ぎることを恐れずに言えば、上の理解は量子力学のエネルギーの概念に近い。エネルギーとしての量子は、相互反応によってその実体が確定され、相互反応は永遠に継続する。従って、量子力学も目に見える「確かなもの」の存在を否定し、動的な相互反応によって事象が推移することを認める。

ここで注意が必要だ。グループ仲間の仏教の信者がしばしば口にする言葉に、「仏教は宗教ではなく哲学だ」がある。「哲学は宗教よりも高等、かつ普遍的だ」という意味がありそうだが、仏教の信者がそういう発言をすることは、好ましくない。人間社会において、宗教には宗教独自の役割がある。その役割は哲学とは異なる。 ここまで述べてきたように、認知能力の限界に挑戦する量子力学は、科学的な実証だけで成り立つ学問分野ではなく、哲学的な思考が重要な役割を果たす。ここで使われる科学の哲学は、人間の存在(「人間原理」)から自由でなければ成立し得ない。「人間原理」に基づいた古典物理学を放棄する覚悟が必要になる。一方、宗教である仏教は、あくまでも人間存在にこだわらなければならない。「人間原理」を失った宗教は人間を救うことができず、宗教として成立しない。


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