学生との対話:自分の限界を超える(第1部)
法経等6学部の学生に講義しました。聴講者が多様なので、私の専門分野の知識だけではなく、人間としての自分をさらけ出すことにしました。講義の途中で学生に質問をし、レポートを提出してもらいました。このエッセイはそれをまとめたものです。
Essay 43

世界へ出る若者に必要な心構え

和戸川の関連書籍「誰も知らないオーストラリア
2014年10月18日
和戸川 純
倫理を外から押しつけるのは的外れ

まず、このエッセイと直接には関係のないトピックから、入りたい。

小保方晴子の問題(エッセイ42「小保方晴子が愛するSTAP細胞」)との関連で、大学教授や理研幹部から、「学生への倫理教育が必要だ」、という声が出ている。倫理という社会規範を、これから研究者になる学生たちに外側から押しつけることは、無意味とは言わないが、的外れと言うことはできる。

研究者が、突出した成果をあげるための原動力になるのは、心の内面から噴出するエネルギーだ。そのようなエネルギーを引き出すと同時に、思考を論理的に展開できるようにする教育を行えば、倫理教育は不要になる。

コピペは悪いなどと教えるよりも、オリジナルなアイディアを考えたときにほめ、そのアイディアを論理的に展開して、何らかの結論に達したときに、高い評価を与える。自分の頭で考えることが、高い評価に結びつくことを学習させれば、オリジナルな研究をすること自体が喜びになる。真似事に対する歯止めが、心の中に自然に構築される。

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大学では、学生と教員が討論するゼミを増やし、単なる筆記試験ではなく、エッセイ作成に重きを置くことが大事だ。学生個々の考え方を伸ばす教育を、中心に据える。

若者が少なくなって、大学が過剰の時代になることは、教育ビジネスにとってはマイナスだ。けれども、教員に多くの時間と労力が必要になる、個々の学生の創造性を重視した教育を実施するには、好都合な外部環境になる。教員が、学生の1人ひとりに十分な時間を割くことができるからだ。

教員1人当たりの学生数が減る。社会への影響を巨視的に見れば、これは教育の効率を落とすことにはならない。

大量生産を基盤にした高度成長期には、画一的なマス教育によって、画一的な労働者予備軍が大量に育てられた。彼らは、ヒューマン・パワーとして量的に社会へ大きな貢献をした。
時代は変わった。少数精鋭主義の教育から生み出された人々の1人ひとりが、社会へ革新的な影響を与えることによって、日本ばかりか、世界をも大きく変える原動力になり得る。

創造的な1人の人間が、社会全体の進行方向を変えてしまう。そのような教育の模範はアメリカにあるが、100%の模範にはならない。日本人とアメリカ人の間には、歴史的、民族的、文化的、心理的な違いがある。アメリカにはアメリカの方法論が必要だ。日本には日本の方法論が必要になる。日本人の特性を生かした、創造的な日本人の育成に取り組まなければならない。

世界の中に身を置いた私
as scientist

C大学の講義において、 私はまず、「世界の中で人間として生き、仕事をするために、心の中の国境を取り除いたほうがいい」、というメッセージを提示した。

私は海外で18年間生活をし、私の妻はヨーロッパ系だ。特に意識をすることもなく、上のメッセージのような心理になっている。けれども、講義の相手は、日本で生まれ育ち、海外で教育を受けたことがなく、仕事もしたことがない学生たちだ。

講義の準備において、私自身が、自分の心理を外側から見て整理することが、必要になった。即ち、私は例外的な日本人で、普通の日本人には分かりにくい存在であることを認め、どうすれば自分を理解してもらえるのかを、考えたのだ。

私は、日本、ヨーロッパ、オーストラリアで、基礎生物学関連の研究・教育を行ってきた。ヨーロッパへは大学院留学生として行き、オーストラリアへは職を得て移住した。
前者の事例では、苛烈な国際環境に身を投じ、多くの困難を自らの力で乗り越えなければならなかった。後者の事例では、個人的な外部環境が極めて困難になった。困難を乗り越えるために、まず決意が必要になった。次いで、生活をする場で、独力で問題を解決しなければならなかった。なお、このエッセイでは、これらの個人的体験を具体的に書くことを、控える。

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Australia

オーストラリアでは、医学・生物学関連の基礎研究において、重要な発見が相次いだ。「クローン選択説」という理論で、免疫学分野で、世界で初めてノーベル賞を受賞したバーネット。免疫学分野では、重要な発見をしたノーベル賞受賞者が、他にも何人も輩出している。

オーストラリアで、私は免疫学とウイルス学の研究・教育を行った。エッセイ28「天才を育てる楽しみ」に、その体験を書いた。C大学の講義では、エッセイ3738に書いたことも含めて、私の仕事だけではなく、海外在住の日本人の生活にも触れた。

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RF君(理学部1年)が、自らの意思で未知の可能性に賭け、多くの困難を乗り越えた私のチャレンジ精神を、高く評価してくれた。チャレンジのおかげで、和戸川がとても大きな自由を獲得した、とRF君は結論づけた。

一方、SKさん(文学部2年)は、人生におけるチャレンジを恐れ、小さな枠の中にはまってしまっている自分との対比という視点から、私の話を聞いてくれた。挑戦しようという気持ちがあれば、努力をすることによって、大きな未来が手に入ることを、理解してくれた。

行動のための「無知の利」

私は、私の造語「無知の利」の重要性を述べた。固定観念に縛られ、思考においても言動においても、今いる枠の中に閉じこもってしまうことの愚を、指摘した言葉だ。
ここでいう「無知」とは、無用な固定観念を捨てることを意味する。がんじがらめに縛りつけてくる、固定観念を捨てることによって、思考も行動も自由になる。大きな可能性に挑戦できるようになる。結果として挑戦者に利を生む。

私の行動の原点は、困難を克服しなければならなかった、最初の海外留学のときから「無知の利」だった。困難のリストを作り上げて、困難を理由に行動しないことを、止めたのだ。その結果、世界の多様性を知り、多くの大事な知己を得ることができた。

HD君(工学部2年)は、この言葉にとても感銘を受けた。行動する前に調べることに没頭してしまい、結局行動を起こせなかったことが、今までに多々あったのだ。調べているうちに全てが分かった気になってしまい、行動しても無理と結論づけて、あきらめてしまった。

TM君(園芸学部1年)も、「無知の利」という言葉を、自分の心理や行動を反省する材料にしてくれた。
それまで、行動が必要になったときには、相矛盾するいろいろな知識をもとに、余計なことを考えすぎた。「ああなったらどうしよう」とか、「こうなったらいやだ」と考えた。結論は、行動しないことがベストとなった。行動に移せたとしても、迷いながらの実行になってしまい、所与の目的を達成するのが困難になった。
ただし、TM君は、知識の取捨選択が容易ではないことを、明確に指摘した。知識を全く持ち合わせていなければ、判断を間違える。「無知」になるために捨てる、知識の選択が難しいのだ。私の回答は、「目標達成のために必要な知識を意図的に集め、それを中心にして行動計画を立てる。それ以外の知識を捨てる」、だった。こうすれば、成功に至る過程がよく分かり、確実に前進できる。

NN君(園芸学部1年)にも、この言葉がとても印象に残った。熟慮した結果、「無知」とは、ネガティブな事柄を知っていても無視すること、と前向きかつ正確に理解してくれた。

YSさん(理学部1年)は、難しいことにも臆せずに挑戦する心の持ちよう、ととらえた。「普通の日本人は、何事につけても失敗を恐れる。行動を起こす前から、自分には無理とあきらめてしまい、内側に閉じこもりがちになる」、とYSさんは分析した。
「挑戦をすれば、失敗しても何らかの結果が残る」、と失敗をポジティブに考えてくれた。逆にいえば、挑戦をしなければ何も残らないことになる。無為よりも、失敗を人生の糧にすることのほうが、はるかに大事だ。

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そもそも人間には、全ての知識を得ることは不可能だ。結論を出す前に、全ての知識を収集しようとすれば、永遠に結論を出せなくなる。まず目標を明確にし、行動に移るために必要な、最低限の情報や知識を手に入れさえすればいい。行動の過程で、状況が動くとともに、他の情報や知識が必要になる。そのときに、必要な新しい情報や知識を、眼前に持ってくればいい。

「人間には未来を見通すことができない。あらかじめ、全ての準備を整えておくことは不可能だ」、というペシミズムを、頭のどこかに入れておくことが必要になる。これは、前に進むためのペシミズムになる。

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conversation

「無知の利」という言葉は、私の予想以上に、学生たちにインパクトを与えた。ただし、「無知」を単純に適用しては、まずい場面がある。外国人と対面するときには、相手の精神や文化、風俗習慣の基本を、わきまえていなければならない。例えば、海外では年令を聞いたり、宗教問題に触れることはタブー、と心得ていたほうがいい。

上下関係が、人間関係の基本にある日本では、まず相手の年令を確認することが多い。アメリカなどでは、個人の努力ではどうにもできない年令で、社会的な処遇に差をつけることは、差別と判断される。あらかじめ定められた退職年齢はない。

オーストラリアなどの移民国では、先祖をフォローするのが難しいばかりか、本国で困窮したために移住した人が多い。血筋を話題にされることを、嫌う傾向がある。

宗教は個人の信念の問題だ。信仰の善悪について、判断を客観的にできるものではない。キリスト教徒とイスラム教徒の間の反発は、底なしだ。宗教の問題は、議論して解決を得られる種類のものではない。

日本人が知らない学生が置かれた状況

MTさん(園芸学部1年)が、「グローバル化されているのは研究の分野だけではない。どのような仕事をしていても海外に出なければならず、国内よりも大きな困難に遭遇する。そこでは、他人との交流が特に重要になる」、と述べた。
時間を最も自由に使えるのは、学生でいる間だ。MTさんは、大学在籍中に語学研修などの海外留学をしたい、と考えている。肌で文化の違いを感じ、視野を広めたいのだ。
「海外留学の前と後では、後のほうが勉学に励むようになる」、という統計があるそうだ。MTさんは、「日本よりも海外の大学のほうが、勉強に打ち込まなければならず、海外での感化が大きい」、と結論づけた。MTさんが指摘したように、海外の大学は遊ぶところではなく、勉学に励むところだ。そういう大学本来の厳しさが、日本にはもっと必要だ。
英語の「読み・書き」はともかく、「聞く・話す」が苦手という指摘が、MTさんを含めた何人かの学生からあった。

語学研修は勿論大事だが、会話で最も大事なのは、まず自分の意見をしっかりと持つことだ。思考をまとめる習慣が身についていなければ、英語が分かっても意思の疎通は難しい。逆に、言いたいことが頭の中に満ち溢れていれば、語学のハンディを容易に乗り越えられる。語彙や文法にとらわれずに話しているうちに、英会話がぐんぐんと上達する。

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留学をすると、帰国後に就職が難しくなるので、海外への留学者数が減っている、とマスコミが書き立てている。MTさんもそう思っていた。けれども、日本での大学卒業者の求人状況は、諸外国よりもいい。大卒者の就職率は95%だ。これに対して中国は84%、韓国はたった59%。自国での就職が困難な中国人や韓国人のほうが、可能性に賭けてアメリカへ流出している。日本でも、大卒者の職が国内になくなれば、海外留学が増えると思われる。

海外へ工場を移したり、海外の市場で販売を拡大している企業が、とても多い。海外生産比率と売上高比率が、ともに約40%になった。両比率はさらに急上昇している。このようなビジネス環境を考慮して、外国人留学生や、海外留学を経験した語学力が高い日本人を、積極的に採用する企業が増えている。留学をすると就職が難しくなるという「俗説」には、余り信憑性がない。
現に、就職を考慮して、日本人学生の海外留学に回復傾向が出てきた、という報道が最近はある。大学生だけではなく、高校生の間でも留学への関心が高まっている。

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世界の大学は、教育方法を見ても留学生の数を見ても、グローバル化しつつある。今のままではアジアの大学にさえも追い越される、と東京大学は危機感を持っている。世界の大学間競争で生き残るために、将来的には、学部学生の半数を留学させることを、東大は考えている。現状では、留学する学部学生は1%にも満たない。私が今回講義をしたC大学の留学生数は、東大の数を下回ると思われる。

日本の大学が外国人留学生を受け入れたり、日本人が留学生として海外へ出ることに、国の存亡がかかっている。こういう人的交流が、日本という国を世界の中で機能させるために、決定的に重要な意味を持つことになるからだ。

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日本は、若者にはとても快適な国だ。平和で安全な上に飢餓もない。若者は甘やかされている、と言っても過言ではない。街や電車内での子供や若者の自由奔放ぶりから、それを実感できる。大学を卒業するまで、親が子の教育費や生活費を負担するのが、日本では当り前だ。こんな快適さが、内向き思考に輪をかける。

イギリスの伝統を引くオーストラリアでは、子が17歳になれば、親から独立することを期待される。親が金持ちでも、学生は、奨学金を得たり、アルバイトをして稼がなければならない。

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ただし、他の先進国に比べれば、日本の若者は、教育費の負担において、とても不利な状況に置かれていることを、強調しなければならない。なお、以下の統計は、1998~2012年に渡るものだ。

日本人は、日本の大学進学率は世界のトップ・クラス、と思っている。ところが、進学率は41%で、OECD各国平均の54%よりもかなり低い。OECD26カ国の中のランキングは、20番目だ。この進学率は、日本人が余り気づいていない、経済的な困難を反映していると思われる。

教育費負担を比較すると、公費の教育予算が占める割合は、OECD各国平均の73%に対して、日本はわずかに32%。OECD26カ国の中で、なんと25番目なのだ。

公的支援が少ないので、奨学金の受給率は、アメリカ約70%、イギリス74%、ドイツ(家庭収入が一定水準以下の)学生全員、オーストラリア約80%なのに対して、日本は9%にすぎない。しかも、日本では返済義務のある貸与型が主になっていて、給与型が少ない。他国ではこれが逆転する。

教育費に占める私費負担の割合は、68%だ。即ち、教育費は親が主に負担している。日本人の給与は1997年をピークに減少傾向にある。親の給与に占める授業料の割合が、増大している。2006年に、国立大学の授業料は給与の9%、私立大学では14%になった。奨学金の受給が難しいので、生活費も支援しなければならず、親の負担は実際にはさらに重い。

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なお、先進国の中では、日本人の所得は少ないほうだ。こんなところにも、日本人には誤解がある。
国民1人あたりの所得は、2011年に世界ランキング19位で、アジア大洋州では、シンガポールやオーストラリアよりも少ない。2012年に全大学生の2.7%が中途退学したが、そのうちの20%が経済的理由による。

国際交流が難しい理由

MTさん(園芸学部1年)は生化学を学んでいるので、私の専門的な話を身近に感じた。

self-organization

私たちのからだは、自己組織化という現象をもとにして、構築されている。自己組織化は、高校で習った程度の簡単な物理・化学反応が基礎になっている。自己組織化は、原子が組み上げられて、最終的に生体器官になるまでに、分子や組織の形態形成の各過程で関与する。原理は単純だが、総体としてはとても複雑な反応になる。

生体構築の面から研究されてきた自己組織化を、製造業に応用すると、大きな未来が広がる。自動車のように複雑な工業製品まで、低エネルギー下で「自然に」作ることができるのだ。MTさんは、自分が目指す専門との関係で、技術としての自己組織化の重要性をよく理解できた、という。

MTさんは、世界で仕事をする将来の夢を述べた。語学をマスターすることが、まず大事と考えている。
私は次のように指摘した。「語学の専門家でもない限り、語学は、仕事で目的を達成するための手段にすぎない。理系の研究者ならば、英語ができるのは当り前。英語で、専門的な仕事ができなければならない」。これは、厳しい指摘のようだが、逆に言えば、「英語力は仕事を進められる程度でいい」、となる。完璧な英語をマスターしよう、などと力む必要はない。

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C大学には、海外からの留学生が約1000人いる。けれども、日本人学生との間に余り交流がない。MTさんにはそれが残念だ。日本語で話すボランティアや、留学生の講演会に参加することを、考えている。大学に入ってから、留学しなくても、外国人とコミュケーションを取ったりすることで、英語を学ぶ機会がたくさんあることに、気づいたのだ。

留学生たちも、日本人学生と交流がないのを、残念がっている。両者とも交流したいのに、現実にはなかなかできない。異なる国の学生同士が、日常的につきあうには、多くの壁を乗り越えなければならない。交流は、意外に難しい。

Melbourne university

私は、メルボルン大学International Houseの活動に、いろいろな関わりを持ったことがある。この寮の居住者の半数がオーストラリア人、残りの半数が留学生だ。全員が英語を話せる。

活発な交流があってもよさそうだが、夕食後のリラックスした時間帯でも、各国の学生が、自分たちだけで集まりがちだ。オーストラリア人や中国人、それに日本人などがまじりあって、おしゃべりをしたり、一緒に街へ出かけることは、余りなかった。
リラックスできる時間だからこそ、言葉だけではなく、生活習慣や文化、それに心理までよく分かり合える仲間と、ひと時を過ごしたくなる。こんな心理はよく分かる。

各国の学生を完全に混ぜ合わせるためには、部活のような半強制的な活動が必要になる。International Houseで、私が実行委員会の委員長になって、Japanese Nightというお祭りをやった(エッセイ37「海外では自由奔放な日本人」を参照)。各国の留学生が実行委員会に加わり、一緒に汗を流すことによって、交流を深めることができた。

日本人はどう見られているのか?

海外での日本人の評価は低い、と思っていたAS君(文学部2年)。日本人に対する風当たりについて、私に質問した。他の学生たちも、日本人がどう見られているのかを、気にしていた。

トヨタやソニーなどの工業製品が、高く評価されていることは、誰でも知っている。いささか自虐的な日本人は、民族としての日本人の評価は海外では低い、という観念を持つ傾向がある。AS君も、同じような固定観念にとらわれていた。この固定観念は、自らを信じない日本人の心の内面から生まれる。外国との間に高く厚い壁を構築する原動力になっている。

私は、日本人の精神文化に好意を持つ外国人が多いことを、指摘した。エッセイ8「世界は日本化する」に書いたことを、話した。「 狭小な島国で生活しなければならなかった日本人は、互いにぶつかることなく、協調する術を学んだ。今や世界が小さくなっている。日本人の穏やかな精神生活が、世界中から好感されるようになった。 日本の若者は、日本人であることに自信を持ってほしい」。心を外へ開放するためには、このような自信が必要になる。
私の指摘は、学生たちを安心させた。ただ単に安心するだけでは、自己満足におちいってしまう。私は、「世界人になるためには、他の国の人たちだけではなく、自分たち自身についても、客観的に知る必要がある。個人の未来だけではなく、日本の未来のためにもこれが重要だ」、と述べた。

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race difference

「人種間の意識・行動の差」や「外国人の心理に関しての日本人の誤解」を、私は具体的な例をあげて説明した。YS君(法経学部2年)にとって意外だったのは、「日本人の心は表1層、裏1層から成るのに対して、ヨーロッパ人は本音を完全に隠すために、心が日本人よりももっと多層になっている」、という指摘だった。
学生が驚くことは想定内だった。日本人は、「日本人の心には裏と表があるので、外国人が日本人を理解するのは難しい」、と信じているからだ。

ヨーロッパ大陸では、残酷で苛烈な歴史が、ずっと繰り返されてきた。民族、宗教、文化、言語が異なる隣人同士が、互いをだまし裏切り殺してきた。隣人の土地を奪ってきた。それが今でも続いている。
こんなところに住んでいる人たちにとっては、本音を表に出すことは極めて危険だ。相手を冷静に観察し、自らの意思をコントロールする術を学んだ。ヨーロッパの歴史が、安全な島国で生きてきた日本人の歴史とは、根本的に異なることを説明することによって、私の指摘を理解してもらえた。

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もう1つ、日本人が誤解していることがある。JH君(法経学部4年)は、「日本人には協調性があるのに対して、外国人には協調性がない」、と他の日本人と同じように考えていた。「社会が異なると協調の意味が異なる」、が協調の真実の姿だ。

外国人としてアングロサクソンを例に取る。集団行動の全てについて、リーダーが決定の権限を持ち、その結果に対して責任を持つ。リーダーの下の命令系統が明確になっている。リーダーの下で、役割分担を規定されたメンバーが、一糸乱れずに動く。各メンバーは、各々のポジションで全力を尽くすことを、求められる。その中には、自分の責任の範囲内における、自分の判断をもとにした自己主張が、含まれる。ただし、自己主張の裏には妥協がある。自己主張のぶつかり合いから問題を解決し、目的達成のための道を探る。

日本人の協調は、滅私奉公が基礎になっている。自分を殺しながら、全体の利益を考えて動く。全体の利益が分からない者は、批判される。集団行動が求められる。仲間内で異端者と判断されると、はじき出される。
「社長はお飾りがいい」という言葉がある。日本人の集団は、まるでリーダーが歓迎されない横社会のように動く。その点から、山根千恵の日本縦社会説に、私は賛成しない。

異なる民族の異なる協調関係に、可否の判断をするのは無意味だ。特定の民族の協調関係は、歴史を通して最適な形に収斂した。 ただし、時代環境が変われば協調関係も変えなければならない。これに失敗すれば、多くの困難を経験することになる。日本人は、今の時代環境に合った協調関係を、作ろうとしているのだろうか?

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世界という場においても、人間関係の基本は、感謝、思いやり、献身だ。こんな私の指摘も、日本人である学生たちには意外だったようだ。文学部で行動科学を学んでいるDH君(2年)が、特に驚いた。

人間理解が、日本人中心すぎるのではないだろうか?人間として生きることの基盤は、万国共通だ。こんな当り前のことに対する認識が欠けていれば、多くの問題が発生するので注意をしたい。

小さな島国の山間の村や町に住み続けた日本人は、隣人との意思の疎通のために、言葉を多用する必要がなくなった。「話さなくても分かるはずだ」、と思う心理が確立された。
こんな思い込みも、海外では通用しないことが多い。日本人が世界人になるためには、相手が置かれた状況も考慮しながら、説明を尽くさなければならない。YS君(法経学部2年)は、このことを明確に理解してくれた。

language

AS君(文学部2年)も、相互理解のために、外国人に自分の主張を正確に表明することの重要性を、理解した。「相手の言い分を聞きながら、自分の意見を押しつけるのでもなく、後ずさりするのでもなく、向き合って妥協点を探る。そんなことができる日本人になりたい」、と結論づけた。

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私は、外国人との会話における、具体的な注意点も話した。例えば、「太陽」という言葉から受けるイメージは、日本人、アフリカの人たち、スカンジナビアの人たちの間では、当然異なる。その違いを意識せずに会話をすれば、互いの誤解に気づかなくなる。今まで、日本人だけの社会にドップリ浸かっていたYTさん(法経学部1年)。言葉の概念に対する認識の違いについての説明に、納得した。


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